夕顔、六条御息所…源氏物語の女たち。文学の中の魔界

初夏の夕暮れに白い花を咲かせる、夕顔。「はかない恋」の花言葉を持つ、夕顔にまつわる石碑がある。前回、紹介した「鉄輪の井」から北へ、堺町通を200mほど上っていくと、風情ある民家の前に石碑が立っている。碑に刻まれた文字には、「源氏傳説 五条辺 夕顔之墳」とある。平安時代中期、紫式部によって書かれた王朝文学『源氏物語』。その登場人物で光源氏に愛された女人のひとり、「夕顔」の五輪塔がこの民家の庭あるという(公開されていない)。


夕顔之墳の石碑

主人公・光源氏は愛人である六条御息所のもとへ通う途中、五条辺りで夕顔の咲いている民家に住む女・夕顔を知る。気位の高い六条御息所に気疲れしていた光源氏は、素直で可憐な夕顔に惹かれていく。夕顔の邸では隣家や通りのざわめきが聞こえてくるのも新鮮であり、また可憐なだけでなく、気の利いた会話もできる夕顔のもとに足繁く通うようになる。そんなある夜、静かなところへ行こうと夕顔を荒れた空き家に連れ出す。ところが、その邸で夕顔は「いとをかしげなる女」の物の怪に憑かれて突然、命を落としてしまう。

物語のなかで、夕顔に取り憑いた物の怪の正体は明らかにされていない。古くから、荒れた古い邸に憑いていた霊だという説がある。けれども、夕顔にとり憑いた霊が「どうということのない女を」と光源氏を責めているところからしても、年下の恋人の足が遠のき、苦悩する六条御息所の嫉妬心が生み出した物の怪だと考えた方が、自然だ。


月百姿 源氏夕顔巻(国会図書館デジタルコレクション所蔵)

手に入れてしまえば熱が冷めて、あとは粗雑に扱うといった光源氏の六条御息所への態度と、心変わりした相手がとりたてて優れているわけでもない市井の女(もと三位中将の娘で頭中将の妻)だったのが、六条御息所の心の闇をいっそう深くし、物の怪にしてしまったのだろう。六条御息所はその後、車争いで敗れた正妻葵の上にも生霊となって取り憑き、命を奪う。その後も光源氏の心を取り戻せず、「魔」を心に棲まわせたまま亡くなった御息所は、死霊となって女三宮や紫の上に次々と取り憑いていく。

昔から『源氏物語』は罪の物語ともいわれてきたようだが、「罪」というより、男と女の「魔界」を描いた物語でもあるのではないか。

 

ところで、紫式部は夕顔と六条御息所を人物像以外でも対照的に描いている。例えば、夕顔と光源氏の出会うきっかけになるウリ科植物の夕顔は食用(かんぴょう)となるため、庶民の家で栽培されていた。これに対して、六条御息所の邸の場面では当時の貴族が愛でたという朝顔の花が咲いている。

余談だが、昔から弱々しく、それでいて小悪魔的な夕顔は男性読者に人気があり、物の怪と化す情念の人である六条御息所は女性読者の共感をあつめているようだ。

約千年のあいだ読み継がれてきた『源氏物語』。夕顔の五輪塔は江戸時代に、「夕顔」を愛する人たちの手で建てられたと聞く。町名もまた、江戸時代に「夕顔町」と変更され、今に続いている。

 

背筋がゾワリ、京都の女と男の魔界「鉄輪(かなわ)の井」

京都に妖かし多いといえども、ここまで怖ろしい話も、そうはないだろう。

能の『鉄輪(かなわ)』でも知られる「鉄輪の井」頭に鉄輪(鍋や薬罐をかける三本足の五徳)をはめて火を灯し、顔には朱をさし、口に松明を咥え、自ら鬼になって男に恨みをはらすため、7日間、貴船に丑の刻参りをした女の話である。伝説とはいっても、実際に井戸が存在し、祀られているのだから、背筋がゾワリとなる。

下京区堺町松原下ル、表札が掲げられた戸を開けて、路地を数メートル進んだ右手奥に、その井戸はある。住宅街に溶け込んでいるので一度、見過ごしてしまい、引き返して入口を見つけた。よく見れば、戸の上に鉄輪の井戸入口とあり、しめ縄が貼られてあった。


(写真左)通りに面して引き戸があり、(写真右)その路地の奥、右手に鉄輪の井がある

民家が軒を連ねる路地を進むと、朱色の鳥居があり、右手に鉄輪の井戸、その隣に夫婦和合・福徳円満の神として命婦稲荷大明神が祀られている。昭和10年に命婦稲荷を再建した際、言い伝えどおりに鉄輪の碑が掘り出され、伝説が裏付けられた。


鉄輪の井

昔、この辺りに一組の夫婦が暮らしていた。夫は妻の嫉妬深さに嫌気がさし、離縁して後妻をもらった。前妻は嫉妬のあまり、夫と後妻を呪い殺そうと鬼になる決意をする。悪夢に悩まされ、命の危機をさとった夫は思いあまって、ある人物に助けを求めた。それが、時の帝や藤原道長から絶大な信頼を得ていた稀代の陰陽師・安倍晴明だった。あと一晩で前妻の呪いの願掛けが満願を迎えるという日、晴明は等身大の人形(ひとがた)を作って祈祷し、そこに現れた前妻の鬼女を調伏する。鬼女は晴明の呪詛返しを受けて井戸の傍で息絶えてしまった。

ところが、これで、「めでたし、めでたし」とは、いかなかった。その後、この井戸の周囲では不吉な出来事が相次いだ。困った近所の人たちは相談し合い、その女のかぶっていた鉄輪を埋めて塚を築き、前妻の恨みを鎮めることにした。ようやく不吉な出来事はおさまったという。後に、この井戸の水を別れさせたい相手に飲ませれば、どんな縁でも切れるといわれ、浮気封じや縁切りスポットとして、密かに知られるようになった。

だが縁切りだけではあまりイメージがよくないということなのか、隣に縁結びの神様が祀られるようになった。今では悪縁を切って、良縁を結んでくれる御利益のあるパワースポットとして、知る人ぞ知る京の裏名所となっている。鉄輪の井戸の水は地下鉄工事の際に枯れてしまったと聞いているが、悪縁を切るため、自らペットボトルなどを持参して、この井戸に備えて参拝し、それを持ち帰る人もいるらしい。

この鉄輪の井の話は、宇治の橋姫伝説がルーツになっているようだ。京都の街にはこのような逸話が何気なく溶け込み、連綿と息づいているのだから、興味深い。


左が命婦大明神、左が鉄輪の井

 

京都・朱雀門のヒト好き、風流鬼

平安京大内裏南側の中央にあった朱雀門。この門を起点に、平安京のメインストリートであった朱雀大路は都の南端に位置する正門「羅城門」までを結んでいた。


朱雀門跡の石碑


二条駅前にある平安京跡の説明板

どうやら「門」というのは当時の都人に、あの世とこの世の境界と認識されていて、鬼にも好まれていた。その朱雀門に、風変りな鬼が棲んでいた。


『伴大納言繪巻 3巻. 上巻』に描かれる朱雀門(国会図書館デジタルコレクション所蔵)

夕暮れ、平安時代前期の漢学者・紀長谷雄(きの はせお)が朱雀門を通りかかった。と、その時、ひとりの男が立ちはだかった。長谷雄が双六(すごろく)の名人だと知り、ぜひ手合わせをしたいと願う。その申し出に躊躇する長谷雄だったが、「もし私が負ければ絶世の美女を差し上げる。あなたが負ければ全財産をもらい受ける」と男はいう。長谷雄は受けて立つことにし、朱雀門の楼上で双六に興じた。勝負は一進一退、明け方になって、ついに長谷雄が勝利した。

すると男は約束通り、
「では、この女をお連れください。ただし、100日間、けして手をふれてはいけませぬ
と言い残し、朝の光とともにスウと消えた。

長谷雄の目の前には目の覚めるような美女が控えていた。長谷雄は美女を邸に連れて帰ったが、あまりの美しさに100日待てず、誓いを破ってしまう。と、どうだろう。女の形はみるみる崩れ、水になって流れてしまった。

実は、双六の勝負を挑んだ男の正体は、朱雀門に棲まう鬼だった。溶けた美女は100人の都の女の死体から美しい部分だけを集めて鬼が作ったもので、100日経てば魂が入って人間になれたという。鬼は丹精込めた自信作を壊されて悔しがり、長谷雄は欲望に負けて美女を手に入れ損ねたという話。

もうひとつ、今度は鬼から宝物を手に入れた男の話がある。

月の明るい夜だった。都一の笛の名手として名をはせていた源博雅が朱雀門の前で笛を吹いていると、どこからともなく同じように笛を吹く男が現れた。ざんばら髪でひげ面、異様な風貌の男だが、笛の音色はこの世の者とは思えないほど素晴らしかった。

その夜から何度か朱雀門で笛を合わせるうち、互いの笛を交換することになった。男の笛はあまりに素晴らしく、博雅はつい返しそびれたまま、月日は過ぎた。

時代は下り、博雅亡き後の宮中にこの笛を吹きこなせる者はいなかった。帝は浄蔵という笛の名手がいることを知って吹かせてみると、それは見事な音色を響かせた。そこで帝は、博雅が笛を交換した朱雀門で浄蔵に笛を吹かせてみると、楼上から「素晴らしき音色かな」と声が降ってきた。そして浄蔵は、これが鬼の笛であることを知った。鬼の笛は「葉二(はふたつ)」と名付けられ、宇治の平等院鳳凰堂に収められたという。


『月百姿 朱雀門の月 博雅三位』(国会図書館デジタルコレクション所蔵)

羅城門にも漢詩を好む風流鬼が棲んでいたが、朱雀門の鬼もまた、平安貴族に劣らず風流だった。その鬼たちは美女や名笛を人に渡してもどこか飄々(ひょうひょう)とした感があって憎めない。しかも、どちらの鬼も自ら人間とのコミュニケーションを取りたがっているのだから、興味深い。

ちなみに、「葉二」を見事に吹きこなした浄蔵という人物、前回の記事で紹介した祇園祭山伏山のご神体で、途方もない法力を発揮したという浄蔵と同一人物だった。

 

参考文献:『京都・伝説散歩』京都新聞社編、その他

八坂の塔の珍事とその後

八坂神社と清水寺の坂の中間に位置する石畳の坂道を上がっていくと、両側に風情ある佇まいの町家が並び、正面に法観寺の五重塔が見えてくる。京都人にとっては法観寺と言うより、"八坂の塔"と呼ぶ方がわかりやすい。この五重塔は高さ46mとさほど高くはないが、坂にあり、周囲の家並みも低いため、どこからでもよく目立つ。変化の激しい京都の街で、昔からこの周辺の風景はさほど変わっていない。京都らしい景観のひとつであり、塔は東山のランドマークとなっている。


以前撮影した八坂の塔。坂の上から八坂の塔を振り返って見た様子


明治末〜大正初め頃の絵葉書(筆者所蔵)。その当時も変わらぬ八坂の塔の様子が伺える

この五重塔は飛鳥時代、聖徳太子が如意輪観音の夢告により、難波の四天王寺より先に建立し、仏舎利を納めたと伝わる。平安時代には官寺(国家の監督を受ける代わりにその経済的保障を受けていた寺院)七カ寺の一つだった。伽藍は白鳳7(678)年の建築といわれる。京都人はもちろん、旅行者からも愛されるこの塔に、その昔、珍事が起こった

天暦2(948)年のこと。八坂の塔が北西に傾いてしまった。その方角に御所があることから、宮中でよくないことが起こるのでは、と大騒ぎになった。

時の天皇は、法力を持つことで知られる修験者・浄蔵に塔を元通りにするよう命じる。さっそく浄蔵が塔に向かって祈祷すると、一晩で塔は真っ直ぐになったという。

この浄蔵は不思議な伝説を持つ人物で、以前の記事でも紹介した一条戻橋に関わるエピソードが残る。熊野から戻ってきた浄蔵が一条戻橋で偶然、父の葬列と出会った。浄蔵は一目会いたかったと嘆き、祈祷すると、父が蘇生したという。

「一条戻橋」の名前にも由来する修験者・浄蔵のエピソードとは?

平安京の都市伝説「一条戻橋」と安倍晴明

平安京の都市伝説「一条戻橋」と安倍晴明

もうひとつ、塔の傾きを直したと伝わる別の人物がいる。

この塔を建てた大工の棟梁の息子だ。父は、頼りない息子を心配するあまり、わざと塔がじょじょに傾くように仕掛け、息子に秘策を授けて亡くなった。後に傾いてしまった塔の騒ぎを聞きつけた息子は、「自分が直します」と申し出る。そして、あっという間に傾きを直してしまい、一生困らないだけの恩賞を得た。

実は、父親の遺言に従って、塔の中心の柱に庚申さんの入った箱が設置されていたのを取り出しただけで、塔の傾きが直ったのだった。その後、箱に入っていた庚申さんは、法観寺の境内にお堂を建て安置された。息子の行く末を心配した親心と父の建築士としての優秀さを表すエピソードだ。


庚申堂

親思いの浄蔵と子思いの父の逸話を残す法観寺は、昔は大きな境内を持ち、八坂庚申堂は境内の一堂だった。現在の八坂の塔は室町時代八代将軍・足利義政が再建したもの。

さて、京都の夏を彩る「祇園祭」の山のひとつに山伏山がある。ご神体は浄蔵が山伏姿で大峰入りする姿を表す。今年、山鉾巡行は中止が決まったが、来年は八坂の塔の傾きを直した法力の持ち主・浄蔵ゆかりの「山伏山」の勇姿が見られることを楽しみにしたい。

京の恋寺、怪僧と袈裟 ~激情の末、武士が陥った恋の魔界〜

平安京の羅城門跡から南へのびる鳥羽作道(鳥羽街道)。平安建都のために造成された道としても名高い古道だ。この鳥羽街道沿いに、男と女の悲話を伝える2つの恋寺がある。一つは上鳥羽にある「浄禅寺」で、もう一つは少し南へ下った下鳥羽にある「恋塚寺」である。

平安時代末、北面の武士の遠藤盛遠(もりとお)は淀川の橋供養の際、美しい女を見初める。女の乗った輿の後をつけた盛遠は、その女が自分の叔母の娘・袈裟(けさ)だと知る。幼なじみだった少女が美しく成長し、源渡(みなもとのわたる)の妻になっていたことに驚き、同時に恋い心を募らせていく。

盛遠は人妻と知って諦めるどころか、叔母を脅して袈裟との逢瀬を迫る。母から事の顛末を聞いた袈裟は一夜、盛遠と過ごし、「自分の夫を殺してくれたら一緒になれます。夫には髪を洗わせ、酔わせて眠らせるので、髪の濡れている方を斬ってください」とそそのかす。

約束の夜、盛遠が袈裟の家に忍び、漆黒の闇に包まれた部屋に眠る男の濡れ髪を掴み、一太刀で斬って素知らぬ顔で家に戻る。ところが翌日、源渡ではなく袈裟が殺されたと聞き、仰天して昨夜の首を確認すると、自分が斬ったのは愛しい女の首だった。


袈裟の様子が伝わる『古今名婦伝 袈裟御前』(国会図書館デジタルコレクション所蔵)

盛遠は袈裟の夫に、下手人は自分だと名乗り、斬ってくれと頼むが、「そんなことをしても袈裟は帰ってこない」と言われ、俗世を捨てて出家の道を選ぶ。この盛遠こそ、荒法師とか怪僧と呼ばれた、文覚上人その人だった。文覚は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に、父義朝の髑髏を見せて平家討伐を促したとされる。彼がいなければ、頼朝は挙兵していなかったともいわれるほど頼朝の信頼は厚かったという。


『集古十種. 古画肖像之部 下』文覚上人像(国会図書館デジタルコレクション所蔵)

鳥羽作道の上鳥羽にある「浄禅寺」は京の六地蔵の一つで、文覚が袈裟の菩提を弔うために建立したと伝わる。境内には供養塔が立つことから、恋塚の名でも知られる。一説には昔、付近の池にいた鯉の妖怪を退治した塚があったため、鯉塚=恋塚となったとも。


六地蔵の一つでもある、上鳥羽にある浄禅寺


門前に立つ恋塚浄禅寺の石碑

この寺から鳥羽街道を下っていくと、下鳥羽にもう一つの「恋塚寺」がある。かやぶき屋根が目をひくこの寺もまた、袈裟の菩提を弔うために文覚が建立したと伝えられ、袈裟、盛遠、源渡の木像が安置される。


下鳥羽にある、もう一つの恋塚寺

文覚上人は高雄の神護寺を再興した人物としても知られるが、貞女の鏡といわれた袈裟への罪の呵責で、後世は修行に励み続けた……とはならなかった。

頼朝亡き後も野心的であり続け、怪僧といわれるほど豪胆な性格がわざわいして、後鳥羽上皇(天皇)への謀反の罪で流刑の憂き目に遭い、途中で命を落としてしまう。謀反に至ったのは、遊興ばかりにふける上皇(天皇)を批判しての事らしく、恋だけでなく、すべてに実直で激情型の性格だったことが想像できる。
 
鳥羽作道に建つ2つの寺に残る文覚(盛遠)と袈裟の悲話は後世、芥川龍之介が小説として描き、映画『地獄門』はカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞し、広く世界にも知られるようになった。

(参考文献/『京都の伝説 日本の伝説1』 駒敏郎・中川正文著 角川書店)

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