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2018.5.15
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悲運の皇子伝説と悪疫を封じた、夜泣き峠

内と外、この世とあの世、自村と他村などには、その境とみなされるものがある。川、橋、井戸、坂、そして「峠」もその一つに数えられる。

“峠”という表記は日本独自のもので、平安時代頃から使われてきたとされる。「たむけ(手向け)」が「たうけ」、「とうげ」へと変化したものだといい、山の頂にいると信じられてきた道の神に旅の安産を祈願し物を供えた(手向けた)ことから、「峠」になったようだ。峠は山の上と下の頂上のことで、その峠のこちらと向こうは別の世界というわけだ。

三方を山に囲まれている京都には、幾つもの峠がある。特に、北山は峠の宝庫だ。その中で、鞍馬街道の二ノ瀬から雲ヶ畑街道の大岩に至るルートの頂に、「夜泣き峠」という不思議な名前が付く峠がある。

二ノ瀬駅

夜泣き峠を示す標識

夜、峠を通るとどこからともなく、啜り泣く声が聞こえてくる…といった怪談話が残っているのかと思ったが、そうではなかった。

平安時代の初期、文徳天皇の皇子であった惟喬(これたか)親王の伝説に由来するようだ。

惟喬親王は第一皇子ながら、時の権力者の娘の産んだ腹違いの弟が天皇になったことで、洛北の里山を転々とし、生活することになった悲運の皇子だ。その惟喬親王が幼い頃にこの峠を通った時、ここで夜泣きをされた。傍にいた乳母が峠の地蔵に願をかけ、そこに生えていた松の木の樹皮をとって親王の枕の下に入れると、ぴたりと泣きやまれたという。

この伝説にあやかって、今でも赤ん坊の夜泣き封じには、この峠の松の皮を剝いて寝床の下に敷いておくと効果があると、昔は松の皮を剥いで帰る人もいたという。ちなみに、松の樹皮ではなく杉の樹皮だったとの説もあるようだ。

そういえば京都では赤ん坊の夜泣きに困っていると聞くと、「松の木の樹皮を枕の下に入れるか、松葉を入れたらええのや。夜泣きがやむ」と年配の方が教えてくれるのは、この伝説に由来しているのだろう。言い伝えでは、親王は二ノ瀬に一ヶ月ほど滞留したとされる。またこの土地の名は親王が雲ヶ畑の一ノ瀬に住み、次に移った場所だったので二ノ瀬と呼んだともいわれる。

雲ヶ畑にある惟喬神社

夜泣き峠を歩いてみると、急勾配の坂が続くが歩きやすい道で、昔の峠の面影を今に残している。だが、狭い谷の上で、雑木林の中にあり、昼なお暗い。眺望も樹木に遮られて、ほとんど見られない。幼い子が不安に駆られて泣き出したとしても不思議ではない雰囲気だった。

夜泣き峠へ向かう道

夜泣き峠に祀られた地蔵としめ縄

夜泣き峠からの峠道(杉林)

惟喬親王伝説の残るこの峠は、古くから里人たちの生活道として活躍してきたが、もう一つ、峠は村の境であり、村の中に悪疫や邪鬼、魔物が入ってくるのを防いでくれると信じられていた。村の外は異世界であり、峠は村の結界でもあったからだ。もちろん、峠の反対側の住人にとっても同じで、自分の里に悪疫が入って来ないように守ってくれる境として大切な峠であった。

今、車道や電車が通り、生活道としても、村の境界としても峠道の役割はほとんど失せてしまった。峠で旅の安全を祈願し、物を手向ける人が少なくなっても、峠は変わらず、ひっそりと人の営みを守り続けているに違いない。

京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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