京都にもある明智光秀の首塚・胴塚と謎

今年の大河ドラマの主人公として注目されている明智光秀。光秀を表す「三日天下」という言葉がある。

主君の織田信長を本能寺で討った後、山崎の合戦で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、京都市山科区の小栗栖で土民(農民)の襲撃を受けて最期をとげたのは本能寺の変から、たった十数日後だった。

光秀はわずかな手勢を連れて山崎から近江の坂本上へ逃れる途中、小栗栖の竹藪を通りかかった。その際、土民に打たれたとされる。一説には付近の土豪だった飯田一族に討たれたとも。飯田一族の飯田佐吉右衛門は信長に仕えており、本能寺の変で追腹を切ったが、その恨みだったといわれる。光秀が討たれた藪は「明智藪」と呼ばれ、今に伝わる。近くには光秀のを埋めた塚がある。

山科区にある明智光秀の

光秀の首とは秀吉の命によって粟田口で磔(はりつけ)にされる。同時に光秀の重臣・斉藤利三も捉えられて磔にされた。ただ、この時、なぜか秀吉は光秀の首を検分しなかった。

東山区の白川橋近くに光秀の首塚が残る。粟田口に埋められた光秀の首の上に塚が築かれ、五重の石塔が立てられたというが、もとは別の場所にあったものが現在の場所に移されたようだ。首塚へは三条通から白川橋を下がって東へ。小さな橋の袂にある和菓子店の北側の路地を進む。民家やアパートが並ぶ路地奥にひっそりと、小さなお堂と隅に五重の石塔があった。有名な戦国武将の塚としてはあまりに簡素に感じたが、世話をする人がいるのだろう、手入れが行き届いていた。


白川付近、路地奥にある明智光秀の首塚


首塚の五重の石塔

この首塚にはひとつ、言い伝えがある。この塚に詣って祈願すると、首から上の病気に霊験があるという。いつしか首塚は霊を慰める対象から信仰の対象になったようだ。

ちなみに、光秀が本能寺の変を起こした理由は謎が多く、歴史ミステリーに挙げられる。これまでは光秀単独説のほか、室町時代15代将軍足利義昭黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説、朝廷黒幕説などさまざまな説が囁かれてきた。信長が安土に御所を建築しようとしていたのが事実なら、京都の公家達は何としても阻止したかっただろう。

ところで後世、光秀の首塚も塚も実際は影武者であり、ホンモノの光秀は難を逃れ生き延びたともいわれる。徳川家康のブレーンである天海僧正となって表舞台に再登場した説まで生まれた。秀吉が首実検をしなかったことや山崎の合戦から約30年後、比叡山に光秀の名で石灯籠が寄進されていることなどが、謎を呼ぶ。また、関ヶ原の合戦時に、生き延びていた光秀が徳川家康側に付いて戦い、途中で命を落とした説もある。

府内には、他にも光秀の首塚が幾つかあり、家臣が光秀の首を守って逃げたとも、光秀自身が生き延びて別の場所で暮らしたともいい、真相は藪の中だ。

主君の信長を討ったことで戦前は裏切り者のイメージを付与された上、死に様が良くないことで、小説やドラマなどで主役を務めることのほとんどなかった明智光秀だが、軍略に長け、教養が高く愛妻家で、当時の武将たちと違って生涯、妻を一人しか持たなかった。近年は、裏切り者や三日天下とは違う光秀像が語られるようになってきた。そんな変化を塚の下の人物は、どのように見ているだろうか。

春のやわらかな日差しの中、白川橋近くの首塚には、まだ瑞々しい花が手向けられていた。


白川近くの首塚とお堂。お堂の中程にオーブ!?


首塚までの道のり。右が白川、左の和菓子店[餅寅]には「光秀饅頭」がある


光秀饅頭には桔梗紋が入っている。黒糖つぶあんと、抹茶白みそあん。どちらも美味しい

歌聖・西行が歌に詰まった嵐山の龍門橋

嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな――
(嘆け、と月がものおもいをさせるのであろうか そうではない 恋のためなのに月のせいだとばかりに 流れる私の涙であることよ)

百人一首第86番の西行法師が詠んだ歌だ。歌人として天賦の才を発揮した西行。彼は名門の出で、鳥羽上皇の北面の武士(天皇の近衛兵)でありながら、若くして俗世を捨て出家した。その後、諸国を旅し、その先々で多くの歌を残す。なかでも恋の歌が多いが、一説には、失恋が俗世を捨てるきっかけになったとも言われる。

その西行が庵を結んだのが、京都の西、嵯峨野の地。西行は嵐山の辺りをよく歩いたのだろう。天龍寺の門前、東に通じる道にかかる「龍門橋」に、次のようなエピソードが残っている。

西行この橋を通りかかると、反対側から童子が現れ、歌を詠みかけてきた。西行は相手を子ども扱いせず、即座に返歌してみせた。ところが、童子はさらに返歌してくる。ほほう、と西行は感心し、返歌した。が、またも即座に童子は返歌する。問答のように歌を詠み合ううち、とうとう法師の方が根負けして歌に詰まり、返歌できなかった。歌聖・西行が返歌で負けたことで、この橋は「歌詰橋」と呼ばれるようになったという。

現在の龍門橋を訪ねてみた。小さな橋で、街並みの一角に溶け込んで、立ち止まる人もいない。だが、橋のたもとに立つ駒札をみると、西行はこの橋のたもとにあった酒屋で歌を詠み、返歌に詰まったと記されている。


西行法師ゆかりの龍門橋

先ほど紹介した童子の話とは違うこの駒札の由来となったエピソードも今に伝わっている。

西行が橋を通っていると、ほのかに梅の花と酒の匂いがする。と、酒屋から女が出てくるのにばったり出会った。そこで、

つぼの内 匂来にけり 梅の花 まづさけ一つ 春のしるしに――
(壺庭から匂ってくる梅の花は、春のしるしにまず一つ咲いてほしい そして梅の香とともに 酒壺のよい香りの酒を ひとつ所望したいものだ)

と、西行が女に詠みかけると、女は即座に、

つぼの内 にほひし花は うつろいて 霞ぞのこる 春のしるしに――
(壺庭の梅の花は盛りを過ぎて 春の名残だけ残っています そして酒壺の酒は霞のように無くなって 匂いだけが残っています)

と詠み返した。法師は、ぐっと返歌に詰まってしまい、以来、「龍門橋」は「歌詰橋(歌女[うたづめ])橋」になったという。西行はお酒を飲み損ねたのだろうか?


歌に詠まれた梅は盛りを過ぎていたが、ちょうど見頃の紅梅

さて、西行にはもう一首、有名な歌がある。

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ――
(願うことなら 2月の満月の頃 満開の桜の下で死のう)

陰暦2月の満月の頃といえば現代では、ちょうど3月中旬にあたる。実際、西行は自らが願ったとおり、満開の花の下、陰暦2月15日(3月中旬)の翌日16日に亡くなり、当時の人々を驚かせたと伝わる。


落柿舎の北側に今も残る「西行井戸」。
西行法師がこの辺りに庵を設けたときに使っていたと伝わる


西行井戸の前から見る長閑な嵯峨野

京の雛祭り、娘たちの成長祈願と厄除け

3月3日は五節句のひとつ、上巳の節句だ。「桃の節句」とか「雛祭り」といった方がピンとくる人も多い。女の子の祭りと言われ、各家で雛人形を飾り、甘酒(白酒)を呑み、ちらし寿司や雛あられを食べて、健やかな娘たちの成長を祝う。


七段飾りの雛人形
(引用/free_image_hinaningyou

子どもの頃、祖母が七段飾りの雛人形を贈ってくれた。春のきざしが感じられる2月末、母と一緒に押し入れから雛人形や雪洞、箪笥に長持ちなどを引っ張りだし、段を組み立て緋毛氈を敷き、その上に人形や道具をひとつ、ひとつ飾っていくのは楽しい作業だった。

雛祭りは古代中国の禊の行事で、日本でも形代(かたしろ)にケガレを移し、川や海へ流して厄災をはらう「流し雛」の風習がもとになっている。


『日本雛祭考』形代
(国会図書館デジタルコレクション所蔵)


箱の中の三人官女

それが平安時代の姫君の「ひいな遊び」になり、現代のように家庭に雛人形を飾る風習が定着したのは江戸時代になってからだという。

雛人形を飾る時、京都では男雛を左(向かって右側)、女雛を右(向かって左側)に飾る。これは古代中国の「天子は南面す」という故事に由来する。南を向いて座ると日の出が左、日没が右の方角になる。左が上座という考え方で京都御所紫宸殿での即位式では天皇が左、皇后は右に立たれていた。京都の家庭で雛人形を飾る時もそれにならった。この雛人形の位置は京雛形式と呼ばれている。

一方、関東地方では雛人形の位置が、逆になる。大正天皇の即位礼では西洋式にのっとって天皇が右、皇后が左に立たれたことから、右が上座という考えが定着していったようだ。


一般的な飾り方の雛人形(パブリックドメイン)

ところで昔から、雛人形を片付けるのが遅いと、娘の婚期が遅れるという言い伝えがある。嫁に行くことを「片付く」と表現したことにも関連するらしい。確かに子どもの頃、雛祭りの翌日には急いで片付けた記憶がある。いつも慌てて片付けるため、子ども心に味気ない思いがしたものだ。一説には、3月6日の啓蟄に雛飾りを仕舞うのが良いとされる。ただ、京都府の地域によっては約ひと月遅れの旧暦3月3日まで飾るところもある。余談だけれど、クリスマスツリーも日本では翌日には片付けてしまうが、欧米では年明け1週間は飾る。早く仕舞うと縁起が悪いという。日本人はせっかちなのか、それとも季節感を大切にするという意味かもしれない。

さて、毎年3月3日、京都のあちこちで雛祭りの行事が催される。下鴨神社の御手洗川では流雛が、市比賣神社では人が装束を来てひな壇に登場する。だが、今年は新型コロナウィルスの影響でさまざまな行事が中止や延期になっているので、事前に確認したい。ただ、雛祭りは厄災をはらう行事。例えば、雛壇に飾ったり食べたりする菱餅のピンクは桃の色で魔除け、白は雪の色で清浄、緑は樹木で健康を現す。また、ひなあられがピンク、緑、黄色、白と色とりどりなのは菱餅の三色を取り入れているとも、春夏秋冬を表現して一年を無病息災に過ごせるようにという祈りが込められているとも聞いた。


雛あられ

昔から京都の商家では、娘の厄除けと同時に、お内裏様のような立派な男性に嫁げますように、との願いを込めて雛飾りをしていたという。今年は外出を控えて自宅で雛飾りをし、春の訪れと厄災が去るのを祈願する人が増えそうだ。


『日本雛祭考』(国会図書館デジタルコレクション所蔵)
奥に京雛形式の雛飾りが見える

平安京の三大葬送地、京都・東山の「鳥辺野(とりべの)」の由来

往古、京都では、人が亡くなると遺体を野ざらしにしてあの世へ見送った。そのまま朽ちるに任せる風葬が主流で、遺体を鳥が啄んで処理するので「鳥葬」とも呼ばれた。

特に平安時代は、平安京の人口が12〜13万人だったといわれ、遺体をどうするかは大問題だった。都を清浄な空間として保つため、自然に葬送の地は都の外へと広がっていく。だが、あまりに遠隔地では用をなさず、都からそう遠くない場所が選ばれた。

その中でも葬送地として一番規模の大きかったのが、東山の鳥辺野(とりべの)であった。今も鳥辺野の入口を示す「六道の辻」の石碑が立ち、歴史の一端をかい間見せてくれる。六道珍皇寺の前に一つ、そして松原通りを挟んで少し東南にもう一つ、石碑が立つ。この辻を境に南は「あの世」(鳥辺野)で、北は「この世」というわけである。


西福寺の横にある「六道の辻」の石碑

鳥辺野は阿弥陀ヶ峰山麓の丘陵地辺りをいう。取材をすすめるうちに、山の枝に遺体をかけて鳥が食べやすいように処理して風葬にしたとのことで、そこから「鳥辺野」という地名になったとも聞いた。


鳥戸野陵参道の石段


京都名所案内図会. 和1冊(上)「鳥辺山」
国会図書館デジタルコレクション所蔵)

鎌倉時代に吉田兼好は随筆『徒然草』に「あだし野の露、鳥辺山の煙」と記し、その一文はよく知られるが、人の世のはかなさを綴っていて、葬送の地の代名詞ともなっている。

時代は前後するが、平安時代の権力者である藤原道長が荼毘(だび)に付されたのも鳥辺野である。また、同じ時代に紫式部が執筆した王朝絵巻『源氏物語』の中でも桐壺の更衣や葵の上、夕顔などが葬送されるのも、またこの地だった。

鳥辺野が京都の葬送地として一般的だったのは間違いないが、それが大規模化していった背景には仏教が説く「西方浄土」が大きく関係していたともいい、京都の東に位置する鳥辺野から西の彼方にある極楽の地「西方浄土」へ向かうという願いが込められていたから、という説もある。

ただ、平安京の頃は三位以上の身分ある者しか墓を造ることが許されず、火葬もまた費用がかかることから、庶民のほとんどは風葬だったとされる。


「文久改正新増細見京繪圖大全完」
トリヘノの文字がみえる(著者所蔵)

現在の京都はどこも街中になっているが、「野」の付く地名の多くは風葬の地だったと伝えられる。

鳥辺野と並んで平安京の三大葬送の地として有名な蓮台野の背後の山「衣笠山(五山の送り火の一つ右大文字の山)」の名は、蓮台野に風葬された遺体に掛けられた着物が風で舞い飛び、次々に山の木の枝にひっかかっていたから、そう呼ばれたという。

今ではすっかり都市に変貌し、その名残はほとんど見られないが。

 

鬼退治、豆まきの起源は京都にあり?京都の節分事情

今年も、京都に鬼払いの行事がやって来た。2月3日に行われる、「節分」だ。

この日ばかりは親も子も一緒になって「鬼は~外、福は~内」と大きな声で囃子ながら鬼に向かって豆をまき、鬼を退散させ、福を招き入れる。それが終わると、各自の年齢に一つ足した数の豆を食べる。

ま、どこの家庭でも鬼役を引き受けるのは、お父さんということになる。元号が令和になって最初の節分ということもあって、「今年は家で豆まきをします」という声をよく耳にする。

さて、この鬼を退散させる節分の豆まき。京の行事や風習、歴史などの研究家に取材をしてみると、得た情報量が半端じゃなかった。毎年この行事はあるので、その都度開示するとして、今回は鬼を退散させる特効薬「豆まき」について記したい。

 

なぜ、豆まきをするようになったかというと、その起源は、京都にあるようだ。


『節分』国会図書館デジタルコレクションより

平安時代の貴族たちは、縁起が悪い方角を避けるために、わざわざ別の場所に迂回してその場所で一泊し、翌日に目的の地へ向かうという「方違(かたたが)え」をする風習があった。

この方違えを占ったのが有名な安倍晴明をはじめ陰陽師たちだ。彼らはそういう行動に出ようとする貴族たちに、その年月日と当人の星回りを考慮して縁起の悪い方角を占っていた。

特に節分の日には、貴族たちは誰よりも良い方角に宿をとり、良い部屋に豆をまいて厄払いをしたという。

 

となると、なぜ豆が厄払いに?つまり厄神の鬼を退散させる特効薬になるのかが知りたくなる。


鬼を退散させている様子。
『忠臣節分儺 2巻』国会図書館デジタルコレクションより

これは中国大陸から仏教や陰陽五行が伝来した頃に、その国の習俗が伝わったのではないか、とのこと。また、京都の鞍馬には、第59代目の宇多天皇(867~931年)の頃、鞍馬山の僧正谷に鬼がいて、都を襲おうとしたので、たくさんの豆を煎って投げつけ、鬼の目をつぶして災難を逃れたという逸話がある。どうやらこの逸話が豆まきの起こりになったようだ。


都を襲おうとする鬼。
『大江山酒天童子絵巻物』国立国会図書館デジタルコレクションより

ただし、豆まきに使用する豆は煎ったものでなければ意味をなさないという。


豆まきをする豆

陰陽五行の秘儀と占術の研究者に取材すると、「煎る」は「射る」に読みが通じ、陰陽五行(木・火・土・金・水)でいう「金」が鬼にあたる。この"金"は金物を溶かす「火」に弱いことから、火で煎った豆が鬼退散の特効薬と考えられたのだろうとのこと。

ただ、残念なことに、なぜ豆が大豆でなければならないのか? を尋ね忘れたので、次の機会に。

古くから、京都の商家では「鬼は~外、福は~内」の他に、大きな荷物(大荷)の読みがオオニ=大鬼(おおに)に通じることから、「鬼も~内、福も~内」と掛け声を出し福と一緒に鬼も招き入れる風習が残っている。それは、大きな荷物が入らないと商売が繁盛しないという意味が込められているそうだ。

京都市内では約800の屋台露店が並ぶことで知られる吉田神社や蘆山寺、壬生寺や北野天満宮など、あちこちで節分の行事がある。何かと騒がしい世の中、豆を撒いて厄を払い、無事に春を迎えたい。


2月2日〜4日にかけて節分祭が行われる吉田神社

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京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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