北山・盗人峠、西山・松尾山で遭遇した京都の山の怪

今年も8月10日の『山の日』が近づいていた。トレイルやハイキングの仕事で山を歩くと、街歩きでは出合えない「不思議」や「恐怖」に遭遇することがある。

東山・北山・西山と三方を山に囲まれ山紫水明の京都。山は古くから信仰の対象となり、地元の人に親しまれてきた。重装備の要らない、比較的なだらかな山がほとんどだ。それでも、これまでツキノワグマとニアミスしたり、足もとにクネる蛇にぎょっとしたり、ヤマビルに吸われて足が血だらけになったり、目の前に動物の骨が落ちていたりした。

山で見つけた熊に注意の標識

北山に「盗人谷」という名の峠がある。その名の由来は、昔、この辺りに盗賊が隠れ住んでいて、夜な夜な都に下りて盗みをしたからとも聞く。峠を歩いていた時のこと、昨年の台風で山は荒れていた。


北山の盗人谷へ向かう

他にハイカーも見当たらず、昼前だというのに、辺りは木立に遮られて薄暗い。枝を踏む自分の足音しかしない。すると、 

きききき、きききききぃ、きぃきぃきぃきぃぃぃ……。

しん、とした静寂のなかを裂いて、鳥の鳴くような声が頭上から降ってきた。立ち止まって、辺りをうかがうと、鳴き声もやんだ。樹間に目をこらしても鳥の影もなければ、羽音も聞こえない。また歩き出すと、ききききき、きぃきぃきぃ、と聞こえてくる。しかも、歩く速度に合わせるように声が付いてくる。立ち止まると、鳴き声も、やむ。また、歩き出す。声も少し後ろを同じ速度で追ってきた。

山に棲む妖怪だろうかと思ったが、どうやら、風が吹いて樹木の枝葉がこすれ合って出す音のようだった。枝葉がこすれる度、きききききと鳥のような、まるで天狗(こんな声で鳴くのかは知らない)かと思うような声を出す。正体がわかって、ホッとした。けれども自分が歩みをとめると、風もやみ、歩き出すとまた風が吹いて枝葉がこすれ合ったのか、そこは、いまだ謎のままだ。

 

もうひとつ、別の日に取材で「松尾山」を歩き終えた時のこと。暑くて、疲れもあり、もう帰路につくことだけで頭いっぱい。急ぎ足で苔寺の方へ歩みを進めていた。

ふと、チリーン、と澄んだ音色が聞こえた。もう一度、チリーン、と鳴る。振り返って、音のした方へ戻ってみると、「山の神さん」と刻まれ、しめ縄のはられた岩が祀られていた。駒札によると、昔、この辺りに山の神神社があったようだ。

地元の人は山に入る時、この岩に仕事の安全と山の恵みに感謝した、とある。今でも山に入るすべての人を守護しているという「山の神さん」に、「ケガなく、無事に歩き終えることができました」と報告かたがた手を合わせ、松尾山を後にした。


山の神さん

それにしても、チリーンという音が聞こえてこなければ、山の神様を素通りした失礼な人間になってしまっていただろう。あの音は何だったのだろう? 仏具のりんの響きに似ていたのだが。

以前、山で進むべき道が消え、迷った体験を書いた。京都の山は低山とはいえ、あなどれない。千年以上も修行僧や修験者、村人が行き来してきた山である。これからも山にお邪魔する時は出合った不思議を楽しみつつ、敬意を払って歩きたい。


松尾山頂からの眺望。こういう景色も山歩きの魅力

安倍晴明が呪力を見せつけた「遍照寺」

平安時代の陰陽師、安倍晴明は式神(しきがみ、しきじん:陰陽道で主に使用される呪術のうちのひとつ)を駆使したと伝わる。晴明の邸を訪ねた客は、誰もいないのに門が開閉し、驚いたという。これも、実は人の目には見えない式神が開閉していたといわれる。

晴明が使ったとされる式神は、2種類ある。ひとつは一条戻橋に隠していた十二神将。もうひとつは、紙や木片、葉っぱといった本来は無生物のもので、それに呪力を加えて、生物のように操った。晴明は後者の式神を使って、その場にいる者たちの肝を潰したという。

その舞台となったのが、右京区嵯峨広沢にある遍照寺(へんじょうじ)だった。


規模は小さくなったが、現在も存在する「遍照寺」

寺は花山天皇の御願により、宇多天皇の孫にあたる僧寛朝が建立した。当時は広沢池の池畔に釣殿や月見堂を設けた壮大な伽藍を構えていたが、応仁の乱で荒廃し、現在の寺は江戸時代に再建されている。

ある日のこと。晴明は遍照寺の寛朝僧正を訪ねた。その時、寺にいた若い公達たちが、晴明を見て面白半分に「式神の術で人を殺すことができますか」と尋ねた。晴明は、「人は簡単ではありませんが、虫などは容易に殺すことができます。ただ、殺してしまえば生き返らせることはできませんから」と応えた。ちょうど、寺の庭を数匹の蛙が跳ねて目の前にひろがる池の畔へ向かうところだった。それを目にした公達たちは、「それでは、あれを殺してみてください。あなたの力を見てみたいのです」とせがむ。

彼らのなかには、本当にそんなことができるのか、ちょっと困らせてやろう、という悪意が潜んでいたのかもしれない。晴明はしかたない、といった様子で、庭に生えていた草の葉をつみとって呪を唱え、蛙に向かって投げた。と、葉は一匹の蛙の上にふわっとかぶさった。とたんに蛙はペシャンコに潰れて、あっけなく死んでしまった。それを目の当たりにした者たちは顔色を変え、声もなく、震え上がったそうだ。このエピソードは『今昔物語』や『宇治拾遺物語』で紹介されている。

蛙が向かおうとした池というのは広沢池のことで、昔からこの地は風光明媚な場所として知られていた。平安貴族たちは「千代の古道」と呼ばれた道を通ってここを訪れ、観月を楽しんだり、多くの和歌を詠んだ。もともと広沢池は遍照寺の創建時に造られたというが、一説には豪族秦氏がこの地を開墾する際に造った溜め池だともいわれている。

現在の広沢池の周囲は約1.2km。嵯峨の山並みを望み、水鳥が羽を休め、水底をのぞき込むと、今では珍しくなったザリガニが生息している。安倍晴明の陰陽師としての力や彼らた生きた時代の風景を想像することのできる、数少ない場所のひとつである。晴明は天文学にも優れていたそうだが、新型コロナウィルスが流行し、豪雨災害が続く今、晴明が蘇ったとしたら、どのように対処しただろう。


廣澤の池と刻まれた石碑と広沢池

明智光秀の娘、信仰に生きた細川ガラシャゆかりの宮津へ

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 
花は花なれ 人も人なれ

明智光秀の娘、細川ガラシャの辞世の歌だ。

戦国時代、ガラシャは波乱の生涯を送る。
ガラシャゆかりの地、京都府北部の宮津市の民家で偶然、細川ガラシャゆかりと伝わる庭石に出合った。高さは1.2mほどだろうか。さほど広くはない庭先で、石の存在感が際立っている。

細川ガラシャのプロフィールをざっとたどってみる。明智光秀の三女といわれ、名を玉(玉子)といった。美しく聡明だったといわれる玉は、織田信長の命で細川藤孝(幽斎)の息子で同じ16歳の忠興と結婚する。光秀と細川藤孝は盟友だった。それに信長の口添えだったこともあって、当時、ふたりの結婚は羨望の的だったという。ところが、玉が幸せだったのはほんの数年。おもってもみない悲劇に見舞われる。本能寺の変だ。

父の光秀が主君の織田信長を討ち、豊臣秀吉に敗れたことで、玉の人生は一変。城主の奥方から謀反人の娘に転落する。その頃、丹後の宮津城に暮らしていた玉は人里離れた丹後の味土野(みどの)の地に約2年間、幽閉。忠興との復縁をゆるされた後も、大阪での生活は幽閉に近いものだった。心の行き場を失った玉はキリスト教への信仰に目覚め、洗礼を受け、ガラシャとなった。その後、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成方の人質になるのを拒み、家臣の手で命を絶ち、燃える城の中で生涯を閉じた。


教会を背後に立つガラシャ像

そのガラシャが2年の間、味土野の地に幽閉されたとき、彼女のための館が築かれた。玉の住まいとして女城、谷を隔てて警備する者たちが住む男城があったとされる。館を築く際に、丹後地方の谷から岩や木が切り出された。その切り出した岩の一部だと伝わる石が、先に紹介した民家の庭先に残っていた。


(左)玉(ガラシャ)の味土野の館を造る際に切り出されたと伝わる庭石(右)大手川ふれあい広場に立つガラシャ像

家の方にお話を伺うと、もとは丹後の味土野より少し西北に位置する弥栄町で古くから茶屋をしていた実家にあったものだそうだ。代々、「ガラシャさんの館を造る時に切り出した石の一部や」と伝え聞いていたという。その経緯は聞いていないが、「館に使われなかった石を、先祖が何かのツテでもらってきたんやろう」とのこと。

そして、「ガラシャさんの命日が近くなると、着物姿の女性の影がスッと石に映ると言われています。ガラシャさんやないかと思うのですが、私はまだ見たことがないのです」と、つけ加えられた。

約400年を経て、光秀が主役の大河ドラマ放送の年にガラシャゆかりの石に出会えるのも、何かの縁だ。間近で見ると、あきらかに切り出した跡があり、天然のままではないとわかる。細川ガラシャ(玉)の悲劇も含め、それよりもっと前の時代から、さまざまな歴史を見てきた石だといえる。石が何かを語りかけてくるわけではないが、触ってみると、なんとなく指先から悠久の時の流れが染み込んでくるような気がした。


玉と忠興が暮らした宮津城から移築された太鼓門


海城である宮津城から天橋立が眺められた。見づらいが、山と海の境に緑の線が横たわっているのが、天橋立

夕顔、六条御息所…源氏物語の女たち。文学の中の魔界

初夏の夕暮れに白い花を咲かせる、夕顔。「はかない恋」の花言葉を持つ、夕顔にまつわる石碑がある。前回、紹介した「鉄輪の井」から北へ、堺町通を200mほど上っていくと、風情ある民家の前に石碑が立っている。碑に刻まれた文字には、「源氏傳説 五条辺 夕顔之墳」とある。平安時代中期、紫式部によって書かれた王朝文学『源氏物語』。その登場人物で光源氏に愛された女人のひとり、「夕顔」の五輪塔がこの民家の庭あるという(公開されていない)。


夕顔之墳の石碑

主人公・光源氏は愛人である六条御息所のもとへ通う途中、五条辺りで夕顔の咲いている民家に住む女・夕顔を知る。気位の高い六条御息所に気疲れしていた光源氏は、素直で可憐な夕顔に惹かれていく。夕顔の邸では隣家や通りのざわめきが聞こえてくるのも新鮮であり、また可憐なだけでなく、気の利いた会話もできる夕顔のもとに足繁く通うようになる。そんなある夜、静かなところへ行こうと夕顔を荒れた空き家に連れ出す。ところが、その邸で夕顔は「いとをかしげなる女」の物の怪に憑かれて突然、命を落としてしまう。

物語のなかで、夕顔に取り憑いた物の怪の正体は明らかにされていない。古くから、荒れた古い邸に憑いていた霊だという説がある。けれども、夕顔にとり憑いた霊が「どうということのない女を」と光源氏を責めているところからしても、年下の恋人の足が遠のき、苦悩する六条御息所の嫉妬心が生み出した物の怪だと考えた方が、自然だ。


月百姿 源氏夕顔巻(国会図書館デジタルコレクション所蔵)

手に入れてしまえば熱が冷めて、あとは粗雑に扱うといった光源氏の六条御息所への態度と、心変わりした相手がとりたてて優れているわけでもない市井の女(もと三位中将の娘で頭中将の妻)だったのが、六条御息所の心の闇をいっそう深くし、物の怪にしてしまったのだろう。六条御息所はその後、車争いで敗れた正妻葵の上にも生霊となって取り憑き、命を奪う。その後も光源氏の心を取り戻せず、「魔」を心に棲まわせたまま亡くなった御息所は、死霊となって女三宮や紫の上に次々と取り憑いていく。

昔から『源氏物語』は罪の物語ともいわれてきたようだが、「罪」というより、男と女の「魔界」を描いた物語でもあるのではないか。

 

ところで、紫式部は夕顔と六条御息所を人物像以外でも対照的に描いている。例えば、夕顔と光源氏の出会うきっかけになるウリ科植物の夕顔は食用(かんぴょう)となるため、庶民の家で栽培されていた。これに対して、六条御息所の邸の場面では当時の貴族が愛でたという朝顔の花が咲いている。

余談だが、昔から弱々しく、それでいて小悪魔的な夕顔は男性読者に人気があり、物の怪と化す情念の人である六条御息所は女性読者の共感をあつめているようだ。

約千年のあいだ読み継がれてきた『源氏物語』。夕顔の五輪塔は江戸時代に、「夕顔」を愛する人たちの手で建てられたと聞く。町名もまた、江戸時代に「夕顔町」と変更され、今に続いている。

 

背筋がゾワリ、京都の女と男の魔界「鉄輪(かなわ)の井」

京都に妖かし多いといえども、ここまで怖ろしい話も、そうはないだろう。

能の『鉄輪(かなわ)』でも知られる「鉄輪の井」頭に鉄輪(鍋や薬罐をかける三本足の五徳)をはめて火を灯し、顔には朱をさし、口に松明を咥え、自ら鬼になって男に恨みをはらすため、7日間、貴船に丑の刻参りをした女の話である。伝説とはいっても、実際に井戸が存在し、祀られているのだから、背筋がゾワリとなる。

下京区堺町松原下ル、表札が掲げられた戸を開けて、路地を数メートル進んだ右手奥に、その井戸はある。住宅街に溶け込んでいるので一度、見過ごしてしまい、引き返して入口を見つけた。よく見れば、戸の上に鉄輪の井戸入口とあり、しめ縄が貼られてあった。


(写真左)通りに面して引き戸があり、(写真右)その路地の奥、右手に鉄輪の井がある

民家が軒を連ねる路地を進むと、朱色の鳥居があり、右手に鉄輪の井戸、その隣に夫婦和合・福徳円満の神として命婦稲荷大明神が祀られている。昭和10年に命婦稲荷を再建した際、言い伝えどおりに鉄輪の碑が掘り出され、伝説が裏付けられた。


鉄輪の井

昔、この辺りに一組の夫婦が暮らしていた。夫は妻の嫉妬深さに嫌気がさし、離縁して後妻をもらった。前妻は嫉妬のあまり、夫と後妻を呪い殺そうと鬼になる決意をする。悪夢に悩まされ、命の危機をさとった夫は思いあまって、ある人物に助けを求めた。それが、時の帝や藤原道長から絶大な信頼を得ていた稀代の陰陽師・安倍晴明だった。あと一晩で前妻の呪いの願掛けが満願を迎えるという日、晴明は等身大の人形(ひとがた)を作って祈祷し、そこに現れた前妻の鬼女を調伏する。鬼女は晴明の呪詛返しを受けて井戸の傍で息絶えてしまった。

ところが、これで、「めでたし、めでたし」とは、いかなかった。その後、この井戸の周囲では不吉な出来事が相次いだ。困った近所の人たちは相談し合い、その女のかぶっていた鉄輪を埋めて塚を築き、前妻の恨みを鎮めることにした。ようやく不吉な出来事はおさまったという。後に、この井戸の水を別れさせたい相手に飲ませれば、どんな縁でも切れるといわれ、浮気封じや縁切りスポットとして、密かに知られるようになった。

だが縁切りだけではあまりイメージがよくないということなのか、隣に縁結びの神様が祀られるようになった。今では悪縁を切って、良縁を結んでくれる御利益のあるパワースポットとして、知る人ぞ知る京の裏名所となっている。鉄輪の井戸の水は地下鉄工事の際に枯れてしまったと聞いているが、悪縁を切るため、自らペットボトルなどを持参して、この井戸に備えて参拝し、それを持ち帰る人もいるらしい。

この鉄輪の井の話は、宇治の橋姫伝説がルーツになっているようだ。京都の街にはこのような逸話が何気なく溶け込み、連綿と息づいているのだから、興味深い。


左が命婦大明神、左が鉄輪の井

 

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京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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