天神さんの梅と牛の不思議

寒波に見舞われた2月半ばの京都。梅の開花の知らせを耳にし、梅の花と不思議を求めて、北野天満宮へお邪魔した。

同宮の祭神・菅原道真といえば、今や学問の神様として名高い。が、その一方で、京の都を震撼させた怨霊の代表格でもあった。

平安時代、道真は藤原時平の讒言(ざんげん)により九州の太宰府へ左遷され、無念のうちに亡くなった。すると、その後、都では次々に奇妙な事が起こりだした。藤原時平は不慮の死を遂げ、清涼殿に雷が落ちて死者を出し、衝撃を受けた醍醐天皇は病に伏す。平安楽土であったはずの都は水害、干ばつ、流行病、飢饉と相次いで災害に見舞われた。当時の都人は、この奇怪な出来事のすべてが道真の怨霊のなせる業だと信じ、その畏怖の念は雷神・天神信仰と結びついて、全国へと広まっていった。

さて、境内を歩いていると、目に飛び込んでくるのは「梅」と「牛」。道真はことのほか梅を愛したという。

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菅原道真が愛したといわれる梅の花

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拝殿と梅の木(昨年の撮影)

道真の京の邸に植えられていた梅が、「東風吹かばにほひ起こせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな(忘れそ)」と詠んだ主人を慕い、左遷先の太宰府へと飛んだ「飛梅伝説」は、つとに有名だ。境内の梅の木はもちろん、一の鳥居の狛犬(異形編:狛犬で紹介)の台座にも梅の木が彫られているし、あちこちに梅鉢の紋が見られる。当時の都人も、梅の香こそが道真の御霊を鎮めると考えていたようだ。

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一の鳥居・狛犬の台座

また「牛」は、道真の遺骸を乗せた車の牛が途中で動かなくなり、そこを墓所と決めたといわれ、境内の牛の像が臥牛であるのは、その説話に由来すると聞く。

ところで、至る所にある臥牛像の中で、実は一体だけ立ち姿の牛があるらしい。出会えると運気を養ってくれるというので探してみたが、なかなか見あたらない。せっかく来たのだからと拝殿で参拝し、ふと見上げると……、あ、出会えた!

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七不思議のひとつ、境内唯一の立ち牛

牛の後足は立っているが、前足は折りたたんだように見えるから、臥す途中の状態を表現しているのかもしれない。この牛は同宮の七不思議のひとつでもある。

七不思議といえば、三光門がよく知られている。本殿前の中門で、月・日・星の彫刻が施されていることから、その名がある。だが実際は、星の彫刻はないので「星欠け門」とも。平安時代、御所の帝が北野天満宮に向かって祈る際、三光門の真上に北極星が見えたといわれ、「星」は天に輝く北極星を指すのだとされている。

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七不思議のひとつ、星欠けの三光門の「月」

逆に、ほとんどの参拝者が素通りしていて、意外に知られていないと思えたのが、大黒天の灯籠だ。数ある灯籠の内、唯一、大黒天が彫られており、この大黒さんの口に小石を乗せ、落ちなかった石を財布に入れておけば一生お金に困らない、とのこと。

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七不思議のひとつ、大黒天の灯籠

ほかに興味深かった不思議をひとつ紹介したい。拝殿の前で若い参拝者たちが「わー、映った!」とはしゃいでいた。耳に入ってきた話では、拝殿上部に掲げられている鏡に自分の姿を映してから拝むと願い事が叶うというのだ。これは同宮の七不思議に加えられていないから、今後、番外編としてジワジワと浸透していくのかもしれない。

ところで、ちょうど境内の梅苑が一般公開されていた。まだ蕾が多く、花はちらほら…。今月2月25日の菅原道真の命日には、毎年、五花街の一つ上七軒の芸妓・舞妓さんたちが花を添える「梅花祭」が催される。その頃には見頃を迎えるのだろう。寒空の下、三分咲きの梅に春を感じつつ、境内を後にした。

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境内の梅と牛のコラボ(2017年2月撮影)

京を震え上がらせた「鬼」の正体!

福は内、鬼は外――。節分には、吉田神社や廬山寺、千本釈迦堂など、京都でも多くの寺社で鬼や厄災を払う行事がおこなわれる。節分に豆をまいて鬼を払うのは、古来より穀物や果物には魔除けの力があると信じられてきたことに由来するのかもしれない。

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千本釈迦堂の節分祭

この追い払われる「鬼」の代表格として、京都で最も知られているのが、酒呑童子(しゅてんどうじ)だろう。その伝説を調べてみた。

一条帝の御代、都は天変地変に見舞われ、女たちが行方知れずになる事件が多発する。陰陽師・安倍晴明に占わせると、京都の西、大江山に巣くう鬼たちの仕業だと判明。そこで源頼光らの武者が集められ、討伐に向かう。神仏の助力を得、策略で酒に酔わせ、鬼たちを退治するが、その鬼の頭目だったのが、身の丈約3メートル、大酒をあおっては人をさらい、その肉を喰らっていた酒呑童子だった。

その酒呑童子を退治して切り落とした首を埋めたと今に伝わる鬼塚が、京都市内にある。

京都市と亀岡市の境にある老ノ坂トンネルの京都側から南へ脇道を行った先、旧老ノ坂峠にあるその塚は、今に「首塚大明神」と呼ばれ、京都の魔界スポットでも、よく取り上げられる場所になっている。 さっそく取材探訪してみた。

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老ノ坂トンネル

旧老ノ坂峠の「従是東山城国」の石標からすぐ、石の鳥居が見える。

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これより東、山城国(京都)の道標

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首塚大明神

木の根が縦横に張り出し、木立に被われて昼なお暗い参道を上っていくと、鳥居と小さな社が現れる。そして木枠の中に石が積まれた首塚があった。

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首塚大明神への参道を覆う根株

この社の由緒によれば、酒呑童子とその一族を征伐した源頼光ら四天王が、その首級を京に持ち帰ろうとしたが、この老ノ坂峠に立つ子安(こやす)地蔵尊に「不浄なものを天子様の都に持ち込むことはならん」とたしなめられ、この峠に首を埋めて封じたという。

その日は雲行きもあやしく、ほかに訪れる人もなかった。前もってライター仲間から、「強い気にあたって気分の悪くなる人もいるようだから、注意して」と聞かされていたので、長居はせず、早々に首塚を後にした。

首塚の主・酒呑童子について調べてみると、興味深いことがわかった。その正体は、実は疫病だというものだ。平安時代、一条天皇の在位期間に疱瘡が大流行し、路頭には死骸が連なるありさまだった。都人は「赤疱瘡」などと呼んで、ひどく怖れたという。酒呑童子の姿が赤鬼なのは赤疱瘡を具現化したもので、鬼たちが大酒を飲んで人肉を食らい、鬼屋敷に人骨が累々と捨てざらしにされるのは、疫病で亡くなった人たちの死体が都にあふれている様子だともいわれる。

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大江山酒天童子絵巻物. 二
(国会デジタルコレクションより転載)

また、老ノ坂を含む丹波の大江山には多くの山賊がいて、夜な夜な都を襲ったとされ、酒呑童子=盗賊(山賊)という説だ。他にも、丹後地方では酒呑童子=異人説が根強い。日本近海を航行していた異国船が難破して丹後半島に漂着、髪や肌の色の違った乗組員の異国人を怖れたという。つまり「鬼」の正体とは、人びとが怖れ、払うべき存在そのものを指していた。

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老ノ坂旧山陰街道

ところで先の首塚大明神だが、今は首から上の病を封じるご利益があると信仰されている。古人たちは鬼のような恐ろしいものは、それを封じて祀ると、それと同等の恐ろしいものに対抗できると考えたらしい。

さて、今年の節分、「追儺」や「鬼やらい」の行事に参加したり、家庭で豆まきをする人たちも多いだろう。皆、どのような鬼をどのように払って春分を迎えるのだろうか。

プチお遍路! 御室八十八ヶ所霊場めぐり

お正月の間になまった身体を鍛えなおすべく、プチ八十八ヶ所霊場めぐりに出かけた。今から190年前の江戸時代後半、右京区御室にある仁和寺の寺域に、四国八十八ヵ所霊場を模してつくられた御山めぐり「御室八十八ヶ所霊場」が、それだ。

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「御山めぐり」の石碑

伊勢参りでさえ簡単でなかった時代、四国八十八ヶ所霊場へのお遍路は、京の人たちにとって約50日を要する過酷な旅で、途中、死人が出るほどだった。そこで、仁和寺の第29世済仁法親王の本願により、寺医が四国八十八ヶ所霊場の土を持ち帰って寺域の山中に埋め、その場所に八十八のお堂を建て、京の人たちが誰でも詣でることができるようにした。第一番札所から八十八番札所まで、阿波・土佐・伊予・讃岐と本四国になぞらえた約3kmの巡拝路が整備された。全行程を巡拝し終え結願すれば、四国八十八ヶ所霊場をお遍路したのと同じご利益が得られるといい、京の人々はこぞって巡拝に足をたくましくした。まさに、プチお遍路だった!

仁和寺の広い境内から西門を出て、第一番札所へ向かう。

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一番札所[霊山寺]

左手の弘法大師立像の脇を進むと、木立の先に二番、三番札所のお堂があった。時代劇に出てきそうな山中の巡拝路で、さほど間隔をあけずに目的のお堂が次々に現れる。ただ、近年の風雨で道やお堂が崩れかけているところもあったので、足元に注意が必要だ。

途中で逆打(さかう)ち(巡拝路を八十八番札所から逆にまわり一番札所へ向かう)されている地元の方に出会った。ほぼ毎日、歩かれているとのことで、札所の中の面白いご利益スポットを幾つか教えていただいた。その一つが土佐域の三十三番札所だ。

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三十三番札所の弘法大師像

ここでも弘法大師立像が迎えてくれる。この大師像が手に持っているカゴにお賽銭を投げ入れ、入れば願い事が叶うとのこと。さっそく願い事をし、お賽銭を投げ入れた。これが、なかなか難しい。三投目でようやく成功! 一投目で入らないとダメとは聞いていないので、ま、OKにしておこう。伊予域の四十一番札所は唯一、六角形をしたお堂だ。このお堂を時計回りに3回まわって拝むと、将来、介護されずにあの世へ行けるとのことで、後の人生のために3度まわってから念入りに拝む。

また、この巡拝路はご利益だけではなかった。山頂の四十八番札所を過ぎた辺りからは、京都市内を一望できる絶景スポットの連続だ。眼下に仁和寺の伽藍や双ヶ丘、遠くに東山・西山の景勝地や京都タワーが見渡せた。少し霞んでいたのが残念だったが、すっきり晴れていれば伏見城や男山まで見えるそうだ。

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巡拝路と集の京都市内の眺望

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オーブか?巡拝路にて

終盤にさしかかった讃岐域の第八十番札所では、京都ふしぎ石のひとつ「おむろの黒石」に出会えた。石にさわって痛いところを撫でれば、痛みがとれるといわれる霊石なので、私もさわって、日頃から悩まされている腰痛の部分を撫でておいた。

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さわって撫でれば痛みがとれるといわれる「おむろの黒石」

御室の自然と江戸時代から続く京の人々の信仰心を肌で感じつつ、池の脇を抜けて、いよいよ最後の八十八番札所へたどり着く。やった、結願! と大喜びして、ふと気がついた。御山めぐりをする直前まで感じていた腰の痛みが、すっかり消えていた。ご利益のおかげか、それとも山道に足腰を揉んでいただき、日頃の運動不足が解消されたせいだろうか。

プチお遍路を終え、身も心もスッキリとした一年のスタートとなった。

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結願成就の八十八番札所[大窪寺]

京のお正月と縁起物たち

新しい年を迎え、あちこちにお正月の縁起物が飾られ、京都の街は清浄で華やかな雰囲気に包まれる。お正月飾りの三種の神器といえば、「注連縄・門松・鏡餅」だろう。

なかでも門松は、年神さまを迎えるための依り代だといわれる。一般によく見られるのは、青竹を中心に据えて、その周囲に松や梅を配した飾りで、「天・地・人」をあらわすとされている。

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松竹梅の門松

新年の始まりに、より強力な霊力を持つ縁起物を揃えることで、この一年をより良く、健やかに過ごしたいという人々の願いから生まれたのだろう。また、門松の風習は、山から神の依り代の松を持ち帰って門前に飾ったのが始まりで、床の間に飾ったのが生け花の始まりになったとも伝えられる。

ところで、お正月の京都の街を歩いてみると、特に、寺社や花街、旧家などでは京都特有の「根引き松」と呼ばれる門松が飾られているのをよく見かける。

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根引き松

呼び名のとおり根がついたままの若い松で、枝の中程に和紙を巻き、水引が掛けられている。取材中に教えてもらった情報では、根っこを付けたままにしてあるのは「地に足のついた生活ができるように」とか、「成長し続けていけるように」といった意味があるとのことだった。

正月の代表的な縁起物のうち、注連縄は前回に紹介したので、残りの一つ、鏡餅について取材したところ、古くは鏡と餅とが反対で、「餅鏡(もちひかがみ)」と言われていたらしい。

『源氏物語』の「初音」には長寿を祝う正月の行事の中で、餅鏡が登場するが、当時は行事の後でその餅を食べるのではなく、見て安寧を祈る縁起物だったとのこと。また、古来より鏡は魔性を含むよろずの物の真の姿を映す祭祀の道具、権威を象徴する財宝として扱われ、丸い形には霊力があるとされていた。京都ではお雑煮の餅にも、「角が立たないように」という気遣いから、丸餅を食べてきた。

餅に関する縁起物としては他に、「餅花」がある。福をまねくといわれ、白や紅色に染めた餅を小さく丸めて柳の木などの枝につけたものだ。京都での歴史は浅いようだが、早く春を呼びたいという、京都の人たちの風流を愛する心から生まれた新しい縁起物だろう。お正月に市内を歩くと、花街のお茶屋さんや店先に飾られていて、紅白の花がパーッと咲いたように見え、花の少ない季節に彩りを添えている。

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街で見かけた餅花

このように京都では、縁起物を飾ってお正月を迎えるということは、厄除来福をいただいて安心を得る、平安時代から続く大切な風習なのだと、取材をした年配の方たちは言う。

ただ最近では、お正月飾りをしない家庭も増えてきたというが、古来より、人々の願いや祈りがこめられ、工夫を重ねて現代にまで伝えられてきたお正月飾りには、やはり秘められたパワーがあるように思えてならない。新年の始まりを気持ちよく迎えるために、お正月飾りをし、また街を歩きながら目に留めて、この一年の新たなパワーをいただきたいものだ。

神と人、人と魔の結界を示す、最強の立入禁止縄

年末になると、お正月を迎える準備として、各神社では新しい注連縄(しめなわ)が張られ、各家庭の玄関先や車にも注連縄飾りが付けられる。

この注連縄だが起源は、日本神話にさかのぼる。天岩戸から出てきた天照大神が再び天岩戸へ入ってしまわないよう、「立ち入り禁止」の意味で、神々が岩戸にシリクメ縄を締め塞いだのが始まりとされている。というわけで、注連縄は神と人との領域を示し、邪なものたちが入ってこないようにするための結界でもあった。

その注連縄を探して、年末の京都の街を歩いてみた。

新年を迎える準備には少々早かったが、一年を通して注連縄を見ることができるのは、やはり神社だろう。実際に巡ってみて気がついてのは、注連縄の張り方もそれぞれだということ。主なものは一本の線のように張られた一文字型、ほかに真ん中をたゆませたU字型や波形などもあった。

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花園の今宮神社の注連縄(一文字型)

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東寺境内の八島殿(U字型)

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松尾大社の注連縄(波形)

また京都の五花街や飲食店の老舗も、全てのお店がというわけではないが、一年中、注連縄飾りが見られる場所だ。その中でよく見られるのは、中央を太く末を細く作った大根型の注連縄飾りで、藁束を扇形ひろげた垂らしに「笑門」や「蘇民将来」の文字が書かれた福板と紙垂が付けられていた。

ほかにも祇園祭・橋弁慶山の力縄なども見られた。一年間、花街の清浄を守り続けてきた注連縄飾りは、家庭のものとはまた違った趣があって興味深く、まち並みの美しさとあいまって、とても清々しい気持ちになった。

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祇園甲部で出会った注連縄

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先斗町で出会った橋弁慶山の力縄

ただし、神ごとに従事されている方にうかがうと、注連縄は魔を祓い、神聖な場所との境を示す場合だけではないのだとか。タタリを封じる注連縄など、強力な魔封じパワーを持つものもあるので、安易な気持ちでむやみやたらに触れたりしない方がよいそうだ。

ところで以前、「京都の民間信仰と風習」という取材で次のような興味深い情報と出会ったことがある。昭和の中頃まで、京都でも、「七人引き」と呼ばれる奇習を伝承する町内があったというのである。

七人引きとは、お正月の三が日に人が亡くなると、町内から相次いで七人の死者が出るというもので、三が日の死は忌まれていたとのこと。一人の死者が七人を死出の旅の道連れにしていくというのだから、たまらない。かといって、人の生死はどうにもならない。そこで万一、三が日に死者が出た場合、どうするのか。その町内では魔(死神)が入って来られないよう、注連縄で町ごとぐるりと取り囲んで結界を張り、喪に服すというのだった。また、それから半世紀以上経つ今でも、その奇習を信じている人は多いようだ。

これまで注連縄は神社に張られるもの、またはお正月飾り、という漠然としたイメージしかなかったが、結界として捉えてみると、なんだか年末準備の心構えが違ってくる。注連縄飾りをして一年の垢をおとし、神様を迎える清浄な空間をつくる準備を整えて、気持ちよく新しい年を迎えたいものだ。

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京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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