仲秋の名月PartⅡ・月うさぎと京のうさぎ神社「岡崎神社」

月にはうさぎが棲んでいるーー。子どもの頃に大人たちから、そう聞かされて、満月を見上げてうさぎの姿を懸命に探したものだ。

うさぎ(フリー画像)

ところで、なぜ月にうさぎが棲んでいるのだろう?

月の面に浮かび上がる模様(クレーター)が、うさぎが餅をついている姿だといわれるが、それには「満月=望月(もちづき)」という語呂合わせから、餅つきになったとの説がある。
また、お隣の国・中国では、月うさぎは不老不死の霊薬を作り続けていると伝承されているようだ。

月とうさぎの関係を取材してみると、どうやら月の模様がうさぎに見えるだけではなさそうだ。

うさぎが妊娠してから出産するまでの日数と、月の周期(新月から次の新月まで)はほぼ同じという。一年中繁殖でき、何度も出産するその習性も、月の再生と重ねられた。

古来より、日本ではうさぎは縁起の良い動物として知られている。常に前進し、跳ねるのが得意なうさぎは「前進」「跳躍」として喜ばれ、母うさぎは一度にたくさん子うさぎを産むことから、子孫繁栄の象徴でもあった。うさぎを表す漢字「兎」が「免」と似ていることから、厄災を免れるともいわれる。ほかにも、月はその読みがツキ(運が開く)に通じ、月と縁の深いうさぎもまた、ツキのある動物だとされる。

うさぎを氏神の使いとするのが、京都市左京区岡崎にある岡崎神社だ。平安京遷都の際に、王城鎮護のために平安京の四方に建立された社の一つで、東の方向に鎮座し、ご祭神は子授け安産の神でもある。


岡崎神社

もともとこの一帯は野うさぎの生息地であり、うさぎは多産であることから氏神様の神使いとされてきた。十二支の卯(うさぎ)が方位では東を表すことも、うさぎがこのお社の神使いとなっていることに関係があるようだ。

岡崎神社は通称、うさぎ神社として親しまれる。その境内では、狛犬ならぬ狛うさぎが迎えてくれる。


うさぎの狛犬(岡崎神社)

手水鉢のうさぎは、月を体に満たしたうさぎで、うさぎに水をかけ、お腹をさすって願い事をすると叶いやすいそうだ。うっかり見落としてしまいそうな所にも、うさぎがいるので、探してみるのも楽しい。子授け安産にかぎらず、良縁や夫婦円満にもご利益があり、参拝者に人気がある。


手水鉢のうさぎ(岡崎神社)


金運・縁結び招きうさぎ(岡崎神社)


岡崎神社の提灯にもうさぎ模様が

さて、とても愛らしい姿をしているうさぎ。その容姿からは想像できないが、動物界では最強といわれるほど、一年中発情期が続くと聞いた。多産と出産期の多さから、東洋では子孫繁栄とありがたがられる。だが、場所を西洋に移すと、性的欲望の象徴となり、あまり良い捉えられ方をしていないようだ。絵画で聖母マリアの足もとにうさぎが置かれるのは、性欲にマリアの純血が打ち勝つ構図だとのこと。

ちなみに、世界に目を向けると、月に棲むのはうさぎばかりではなかった。男性や女性、ピエロからカニやカエル、ワニなどの動物まで、国によってさまざまで興味深い。

もうすぐ仲秋の名月を迎える。京都でも陽が沈むと秋の虫の音がにぎやかになり、ずいぶん涼しくなってきた。台風21号の被害で観月の催しが中止されたところもある。今年は夜空の名月を仰ぎ、月のうさぎに思いを馳せながら、この夏に連続した災害からの復興を願いたい。

 


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名月の夜の怪事件、魔所「宴の松原」

一年で最も満月が美しいといわれる仲秋の名月。今年は9月24日(旧暦8月15日)が、それにあたり、京都では各所で名月を愛でる観月の宴が催される。

中秋の名月

昔から多くの人たちが、この季節の名月に魅せられてきた。が、それは人だけでなく、「魔」もまた、例外ではない。

満月の夜の魔物といえば、西洋では狼男が知られる。古くは日本でも、名月の夜には魔物がよく出歩いたようだ。『今昔物語集』などでは、次のような事件を収録している。

平安時代中期、小松(光考)天皇の御代のこと。当時、大内裏の武徳殿の東に広い松林があり、「宴の松原」と呼ばれていた。

『国史参照地図』(国会デジタルコレクション所蔵
※赤く囲んでいる部分が大内裏と宴の松原にあたる

平安宮復元イラスト(看板から)
※赤く囲んでいる部分が大内裏と宴の松原にあたる

 

中秋の名月の頃の、月の明るい夜だった。宴の松原を三人の若い女が通りかかった。すると、松林から若く美しい男が現れた。男は三人の女のうち、一人の女の手をとって松の木陰へと誘った。

残された二人の女が松林の外で待っていると、男女の話し声がふいに途切れた。松林の中は静まりかえった。待てども待てども女は戻って来ない。怪しんだ二人の女は松林へ入ったが、男と女の姿は見当たらない。

いったいどこへ……?

何気なく足下を見下ろして、二人の女は肝を潰した。 月の光に照らし出された女の手と足がばらばらに落ちている。さては、鬼が男に化けて女を食らったに違いない。大内裏は大騒ぎになった。

この奇っ怪事件は、清和・陽成・光孝の三代天皇の時代を記した史書『日本三代実録』にも記録されている。正史が怪事件を取り上げて鬼の仕業としているのは、とても珍しい例だと聞く。

大内裏の中になぜ、広大な松林があったのかは、未だ、はっきりしていない。松林がちょうど内裏と対照をなす位置にあることから内裏を立て替える際の代替地だったとする説が、一般的だ。また、宴の松原という名前から、饗宴が催された場所だとも伝えられる。ただ、電気のない時代、月明かりだけの松林は深閑として人通りも絶え、松の影が黒ぐろとして、さぞや不気味だったことだろう。

バラバラ殺人事件の他にも、今昔物語集は次のような不思議な話を伝えている。

9月半ばの月の明るい夜、男が宴の松原の辺りを通りかかると、美しい女童に出会った。だが、女童が扇で顔を隠しているのを不審に思った男は、女童の髪をつかみ、刀を首にさし当てた。と、突然、女童は臭い小便を男に引っかけ「こんっ」と鳴いて走り去った。

別の話もある。

ある夜、男が美しい女と出会って一晩の契りを結ぶ。女は契りを結んだことで自分は死ぬ、死んだら法華経を書き写し供養してほしいと言い残し、男の扇を受け取った。翌日、男が武徳殿辺りに行ってみると、一匹の狐が男の渡した扇で顔を覆ったまま死んでいた。そこで男は法華経を書き写し供養してやった。ほかにも、ある男が肝試しをしていて、宴の松林の中から得たいの知れない声がし、慌てて逃げ帰った話が残る。

当時の人々にとって宴の松原は、狐狸妖怪の出没する魔所として気味悪がられていたことが窺える。現在、その場所には上京区出水通千本西入に石碑がぽつんと残るだけだ。住宅街を歩いてみたが、かつてこの辺りに鬼が出た宴の松原を想像するのは難しかった。

宴の松原の石碑と周辺の様子

宴の松原の石碑

ようやく猛暑がおさまり、涼を含んだ夜風を感じつつ、そぞろ歩いて名月を楽しみたいものだ。が、月明かりに出会った美男美女には気をつけた方がいいのかもしれない……。

 

旧暦に願いを託す、京の七夕

毎年、京都では旧暦の七夕にいろいろな寺社や場所で行事が催されている。

国立天文台によると、旧暦の七夕は二十四節気の処暑を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔(新月)の瞬間を含む日から数えて7日目になるそうだ。その日は晴天率が高く、月は夜半前に沈むため、天の川が見やすいという。

旧暦の行事として代表的なのが、学問の神様として名高い北野天満宮での「北野七夕祭」である。祭神の菅原道真が七夕の日に歌を詠んだことに因み、神前に道真が愛用したと伝わる松風硯(すずり)や水差し、角盥(たらい)を並べ、左右に詩吟の短冊の代わりに梶の葉、なす、きゅうりといった季節の野菜やそうめん、御手洗団子といったものを供え、無病息災などを祈願する。また、「御手洗川足つけ燈明神事」や「御本殿石の間通り抜け神事」などが行われる。

境内にお邪魔してみると、あちこちに笹飾りが設えられていた。笹の葉と五色の短冊が風に揺れるさまは目にも涼しい。

北野天満宮の鳥居

北野天満宮の境内と七夕飾り

北野天満宮の牛と七夕飾り

北野天満宮境内の鶯橋と七夕飾り

夜間は8月16日(木)までライトアップされ、さらに幻想的な雰囲気になる。ちょうど北野天満宮を訪ねた日(8月5日)、子どもたちの「泣き相撲」が行なわれていた。文武両道の天神様にあやかって、子どもの健やかな成長を祈願するもので、元気な泣き声が境内に響いていた。

境内を歩いて巡り、三光(月・日・星)門と呼ばれる中門をくぐる。この門には月と日の彫刻はあるが、星が無く、星欠けの三光門として天神さんの七不思議のひとつに数えられている。「天神さんの梅と牛の不思議」でも紹介

三光門の日(陽)の彫刻

平安時代、当時の御所から北西の乾にあたる「天門」に、この社は創建された。帝がこの社にお祈りをされる際に、三光門の上に北極星が瞬いていたといわれ、それが星の彫刻がない理由だとも伝わる。この伝承が日・月・星が天皇や国民、国家の平和と安寧にかかわるとする三辰信仰と結びつき、天のエネルギーが満ちる聖地として信仰されるようになった。

 

また近頃は「京の七夕」と称し、北野天満宮の他にも、鴨川河川敷や堀川の遊歩道、梅小路公園、岡崎公園などでさまざまな旧暦の七夕祭りの行事やイベントを楽しむことができる。

元来、七夕の行事は中国から伝わった乞巧奠(きっこうでん)という、7月7日に織姫星に機織りや裁縫の上達を願うものと、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)信仰とが融合したとされる。棚機津女は水辺で機織りをし、7月7日の夜に神様を迎えて禊の儀式をした乙女のことで、7日の夕方のことを七夕(たなばた)と書くようになったとのこと。

平安時代は宮中で供物をし、楽を奏でたり、和歌や詩歌を詠んだりしたが、江戸時代に入って庶民にも広まり、笹飾りを家の軒先に立て、芸事の上達を願うようになった。現在は織物や裁縫、芸事だけでなく、さまざまな願い事を短冊に託す。その願い事を結ぶ笹(竹)は古来より、まっすぐ天に向かって伸びる笹や竹は霊力があるとされ、葉がこすれ合う音は天に届くといわれている。また、笹や竹の葉には強い殺菌作用があることから、魔除けの効果や邪気を払ってくれると信じられた。


京の七夕の鴨川会場で見つけた、
竹カゴの伝統技術を取り入れた風鈴灯

ちなみに、七夕にはそうめんを食べる風習がある。天の川や織り姫の織り糸を模しているとか。色つきのそうめんは短冊の五色になぞらえて、厄除けになるそうだ。


そうめん(フリー画像

2018年、太陰太陽暦(旧暦)の「伝統的七夕」は、8月17日にあたる。国立天文台が7月7日は梅雨で天の川が見られないことが多いため、旧暦7月7日を伝統的七夕として、広めているのだとか。伝統的七夕には、エネルギーが満ちるという北野天満宮の星欠け門の前で、笹飾りと天の川を眺めながら、秋の訪れと一年の無病息災を願いたい。

小さくても大きな霊力、京の「鍾馗さん」

祇園祭の後祭で南観音山に立ち寄った帰りだった。軒の提灯に何気なく目をやった。


南観音山と町並み

あっ、鍾馗(しょうき)さんや!
一階の屋根に、ちょこんと魔除けの縁起物が乗っている。なんとなく久しぶりに出会った気がした。


鉾町界隈で見つけた鍾馗さん

鍾馗さんは、2〜30cmくらいの高さの瓦でつくられた人形だ。いかつい表情で太刀を持ち、たいていは藍袍(くるちょう)を着て、カッと両目を剝いて正面を睨んだ姿で表現される。体は小さくても雨の日も風の日も、連日連夜、一日も欠かさずその家へ侵入しようとする悪鬼たちを退散させてくれる頼れる存在だ。

鍾馗さんの由来は中国で、唐の時代に遡る。実在の人物だという鍾馗さんは、病の床に伏す玄宗(げんそう)皇帝の夢に登場し、楊貴妃の宝を盗もうとした鬼を退治した。以来、玄宗皇帝は鍾馗さんの姿を描かせて、邪気を払ってくれると広めたと伝えられる。その故事から、鍾馗さんは疫病や魔を払ってくれると信じられるようになった。日本では疫病や魔を払うだけでなく、火災除けとしての役割も担っているとのこと。

実は鍾馗さんは、高祖の時代に科挙の試験に失敗し、それを恥じて自ら命を絶ってしまったと言われる。あまりに容貌が魁偉だ、というのが不合格の理由だったらしい。だが、その魁偉な容貌こそが、後生、魔を払うお守りとしての存在感を多いに発揮することになった。


鉾町界隈で見つけた鍾馗さん

 

ところで、なぜ鍾馗さんは屋根の上に立っているのだろうか?

文化文政期の文献のなかに、次のようなエピソードが残っている。三条の薬屋が屋根に大きな鬼瓦を取り付けたところ、向かいの家の女房がそれを見て寝込んでしまった。取り外してくれと頼んだが断られ、対抗策として、鬼に勝つ鍾馗さんを瓦屋に作らせて屋根に乗せたところ、女房の病気が全快した。これが庶民の間で広まっていったそうだ。

それからもうひとつ、京の街にはお寺が多い。お寺はその霊力や魔除けの鬼瓦で悪鬼などを跳ね返してしまうので、はね返された鬼が一般の家に入って来てしまう。そこで、コワモテの鍾馗さんを屋根に乗せ、鬼から守っていただこうと、京の街では家の屋根に乗せるのが流行っていったのだ、とも聞いた。

一昔前までは京都の大路小路を歩いていると、当たり前に目にする縁起物だった。それが今、探し歩いてみると、意外に出会えない。改めて時代の変遷を感じた。

今回、南観音山から少し北上した辺りで見つけた鍾馗さんとは別の日に、妙心寺界隈で見つけた鍾馗さんを撮影した。よく見ると、大きさも顔も表情も微妙に違っている。たいていは屋根の上で正面を向いているが、鬼門(北東角)に立っているものもあった。


右京区の臨済宗妙心寺


妙心寺の鬼瓦(棟鬼飾り)


妙心寺通り


妙心寺界隈で見つけた屋根の上の鍾馗さん。
鬼から守っていただこうと、京の街では家の屋根に乗せるのが流行っていたとか

撮影していた家の方に、面白い話を聞くことができた。鍾馗さんを屋根に上げる時は、誰にも見られないように注意しなければならない。見られると、その効力がなくなってしまうという。また、向かいの家の屋根にも鍾馗さんが立っている時は、互いの視線が合わないよう、少し身体を斜めにするなど、気を配るのだとか。


斜め横を向く鍾馗さん(妙心寺界隈)

殊に、この夏は災害が多い。地震、豪雨、猛暑、台風……。こんな夏だからこそ、鍾馗さんの効力で邪気を払い、京の街を守っていただきたい。


左京区静原の民家で見つけた。これも鍾馗さん!?馬頭観音?

夏の代表・聖性の花を愛でる「京の蓮寺」

猛暑の中、清涼感を運んでくれる花が、古都の境内でちょうど見頃を迎えている。夏の花の代表のひとつ、ハスだ。

ハス

蓮は泥より出でて泥に染まらず」と言われるように仏教を象徴する花だ。

泥の中からスッと茎を伸ばし、大輪の花を咲かせる姿は、仏教が説く理想のあり方だとされ、聖性の花として尊ばれてきた。極楽浄土に咲き、人が極楽浄土に生まれ変わる時には、その花の中に生まれると考えられている。その蕾は清らかな心が芽生え始めた状態を指し、開花した花は仏の智慧や慈悲に例えられるとのこと。

 

京都市内でハスに出会える場所を探してみた。

JR花園駅すぐの法金剛院は四季折々の花が咲き、花の寺としても名高い。もとは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘だった寺で、一時、荒廃していたのを鳥羽天皇の中宮・待賢門院が再興し、寺名を法金剛院と号した。

7月上旬から8月初旬にかけて、極楽浄土に見立てた浄土式庭園では約90品種のハスが参拝者を迎えてくれる。今年は7月29日まで「観蓮会」が開催され、早朝7時から15時30分まで愛でることができる。

法金剛院

法金剛院のハス

ところで、私たちが目にする仏像は蓮台に座り(立ち)、また、ヒンドゥーでは幸運と美の女神ラクシュミー(日本の仏教では吉祥天)がハスの花を両手に持ち、花の中に立つ姿で描かれる。この女神は天地創造の時、ハスの花に乗って浮かんでいたといわれる。

興味深いのは、ハスは水がきれいだと小さな花を咲かせ、泥水が濃いほど大輪の花を咲かせるという。その特性から、泥水の中で花と実をつけるハスは、仏教で迷いに染まらず悟りを開くことに例えられる。

また、ハスが咲く瞬間には、音がすると聞く。取材でハス畑を通りかかった時に、農家の方に話を伺うことができた。早朝のハス畑では、ポン、と微かな音がするそうだ。ポンと音がしたかと思うと、すぐにふわーっと花びらが開く。その音は木魚を叩くのに似ていて、心が安らぐという。

ハスの蕾

一説には、赤ちゃんが、母親の子宮から出てくる時の音に似ているとも。同時に、ハスが花開く時に発する音は、「魔」や「邪気」を払ってくれるとも聞いた。仏教では、ハスの咲く瞬間の音を聞いた者は「悟りが開ける」とか「成仏できる」といった言い伝えもある。

 

仏教と関わりが深い花だけに、他にもハスの咲く寺院は多い。例えば、妙心寺の退蔵院や大覚寺の大沢池、教王護国寺(東寺)、宇治の三室戸寺なども見所として知られている。

大覚寺・大沢池のハス

そしてハスにはもうひとつ、重要な役割があった。泥の中に伸びる地下茎の部分は、私たちが食しているレンコンになる。穴の開いたレンコンは「見通しがきく」とされ、縁起物としてお正月のおせちには欠かせない一品だ。滋養強壮、美肌、胃粘膜を保護するなど、その効能も多い。ハスは観て良し、聞いて良し、食べて良し、という万能植物だった。

ちなみに、同じ水生植物で見た目も似ているスイレンは、学術的に全く系統が違う植物だとのこと。

こちらはスイレン
(ハスは立ち葉だが、スイレンは浮き葉)

今年の京都の夏は、予報ではことのほか暑いらしい。比較的涼しい早朝、ハスの花を観に足を運び、ポンッ、という開花音に邪気を払っていただき、酷暑を乗り切りたい。

 

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京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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