「五山の送り火」は、昔、五山だけではなかった!

8月16日の夜8時、順次、五山に送り火が灯される。盆の入りに各家々に迎えられた先祖の霊は、五山の送り火とともに、あの世へ戻っていくといわれる。今ではすっかり京都の夏の風物詩のひとつとなっている。

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大文字(イメージ)

闇のなかにポッと朱く大文字が浮かび上がるのを見ていると、そろそろ猛暑も終わりだなとホッとすると同時に、今年も無事に五山の送り火を見届けることができたと感慨深い気持ちにもなる。

五山の送り火の起源は明らかではないが、取材によると、記録としてはおよそ400年前に遡るらしい。その原型は、応仁の乱後、荒廃した京の町に満ちる死者の怨霊を鎮め、供養するために行われた万灯籠だといわれる。やはり昔から、火には魔除けの力と鎮魂の力があると考えられていたのだろう。それが、お盆の精霊供養の行事として定着していったようだ。

現在の送り火は、大文字山の「大文字」、松ヶ崎西山の「妙」、同じ松ヶ崎東山の「法」、西賀茂船山の「船形」、大北山の「左大文字」、曼荼羅山の「鳥居形」の5つだ。取材を重ねていくうちに、古くは、十山で送り火が灯されていたことがわかった。

市原の「い」、鳴滝の「一」、西山の「竹の先に鈴」、北嵯峨の「蛇」、観空寺村の「長刀」があったとされる。いの一番の「い」や「一」は物事のはじまりとして尊ばれる数字であるし、成長を意味する竹や澄んだ鈴の音は縁起物であり、脱皮する蛇は再生の象徴、そして長刀は魔を払ってくれる。

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江戸時代の古地図にみる、「い」と「妙法」

いずれも怨霊鎮めや死者を弔う意味合いが感じ取れる。ただ、残念なことに、それらは資金難で失われてしまったと聞く。今後、祇園祭の大船鉾のように復活し、その姿を目にすることができるのだろうか。

連綿とつづいてきた送り火だが、これまでに権力者の死や自然災害、太平洋戦争など、何度も自粛や中止の憂き目にあっている。江戸時代の中頃には、大干ばつで琵琶湖の水位が3mも下がり、火災防止のために送り火が中止されたこともあった。火事が何よりも怖かったということなのだろう。

また、興味深いのは幕末。16日の送り火の日が月食と重なってしまい、「揚げ火は明くる17日に延期せよ」とのお触れが出されている。

古来、月食や日食は天変地異の前触れとされ、不吉だと思われてきた。古人は、その日は屋敷にこもって外に出ず、月や太陽が元の姿に戻るのを戦々恐々として待ったのだ。

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月食(イメージ)

今年は日本でも8月8日早朝に部分月食が起こっているので、16日の夜は安心して五山の送り火を見ることができそうだ。送り火が灯される時間は約30分だ。これは昔から変わらないという。

さて、いつの頃からか、五山の送り火には先祖の霊を送るだけでなく、次ぎのような風流なご利益があると囁かれるようになった。

送り火の「大」の字を杯に映して、それを飲み干すと1年間、無病息災でいられるそうだ。また、送り火の後、火床の消し炭を半紙に包み、水引をかけて家の門口に吊すと、次の送り火まで厄除け、盗難除けになるという。ほかにも、消し炭を煎じて飲むと腹痛に効くとか。実際、大文字山の麓の町並みを歩いていると、店や家の軒に消し炭が吊されているのを目にする。

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大の字の「カナワ」の火床

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送り火に使われる松の割木

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銀閣寺門前商店街の民家の軒先に
吊された大文字の消し炭

まだ一度も消し炭をいただいたことがないので、今年こそ、がんばって手に入れて、1年間のお守りにしたいと思う。

 

京都にもあった、魔を払う花火大会

花火といえば、日本の夏の風物詩のひとつ。この季節、日本各地で花火大会が行われる。水辺で夜空を彩る打ち上げ花火を見物していると、暑さが吹っ飛んで、気持ちも華やいでくる。

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打ち上げ花火

昔から火には厄除慰霊の力があるといわれ、災害や疫病が発生した時に花火を上げる習慣があった。ある地方では花火をやめた年に疫病が流行したという。また、魔除け厄除けとして、手筒花火を軒先に置く風習を今に残す地方もあるらしい。

今は京都市内で打ち上げ花火(大会)を観ることはできないが、以前は市内でも花火が打ち上げられていた。

古くは、明和2(1765)年9月8日、京都町奉行所が、「鴨川で大きな花火をやっているが、三条より北は御所に近いので、防火上、大花火をしてはならない」というお触れを出したと伝わる。

江戸時代は鴨川で打ち上げ花火が観られたのか、と少しうらやましく思ったが、実は昭和に入っても花火大会は行われていた。

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夏の夕暮れの鴨川

昭和29年の8月16日のこと。ある新聞社の主催で鴨川花火大会が行われた。鴨川の河原は大勢の見物客で大混雑したという。なんでも300発以上の打ち上げ花火に彩られ、もう一方では、「五山の送り火」が点火された。その夜、鴨川の見物客は花火と送り火という2つの風物詩を堪能した。なんとも贅沢な晩夏の一夜であった。

ところが、その夜、京都御所で大変なことが起こった。紫宸殿(ししんでん)東北にある小御所から火の手があがり、全焼してしまったのだ。当時、火災の原因はその夜に打ち上げられたパラシュートの付いた落下傘花火ではないかと報道された。が、花火大会を主催した新聞社は原因が花火にあったことを否定し、真相は不明のままになってしまったようだ。

ところで、鴨川の花火大会で打ち上げられた落下傘型花火というのは、あまり馴染みがないので、どんなものか気になった。国立国会図書館のレファレンスデータベースをのぞいてみると、「ポカ物」は、中から雷、星、袋物、落下傘などが出てくる打ち上げ花火とあった。「ポカ物」とは、くす玉のようにポカッと2つに割れて、中からいろいろなものが放出される花火をいう。当時の鴨川を彩ったのは、こういった種類だったのだろうか。

そもそも花火のルーツは、狼煙(のろし)だといわれている。日本に伝わったのは鉄砲と火薬技術が伝来した後のことで、今のように観賞用の打ち上げ花火が流行したのは江戸時代になってからだ。その江戸では、花火による火災が何度も起き、幕府による花火禁止令も出されていたほどだ。火は厄除けの役割もあれば、火災も引き起こす。

京都でも鴨川以外に、桂川で打ち上げ花火を観られた時期があったが、中止になったのはやはり、防火のためだったのだろう。また、「五山の送り火の日に花火大会をやるとはけしからん。観光客のための送り火やない」という、花火大会に反対する京都市民の声もあったと聞く。

京都に暮らす年配の方に当時の花火大会のことを伺ってみた。「送り火の日に花火を上げるんは、よくないと言われてきた。そやさかい、花火は観に行かへんかった」とのこと。 やはり16日の京都の夜は、精霊を送るための五山の送り火を心静かに見届けるのがよさそうだ。

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打ち上げ花火の様子

祇園祭の魔除けアイテム

7月に入って京都の中心街を歩いていると、どこからか祇園囃子の音色が聞こえてくる。これを耳にして、「今年も本格的な夏がやって来た!」と実感する人は多い。暑いのは苦手という人も、お囃子のコンチキチンを耳にすると、華やいだ気持ちになれるのが、不思議だ。

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祇園祭

祇園祭は、7月1日から一ヶ月間にわたって行われる。昔の京の人々は、疫病は怨霊がもたらすものと考え、疫病の流行をくい止めるため、御霊会を行った。平安時代に行われたその疫病退散のための御霊会が祇園祭の始まりだとされる。

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昔の山鉾巡行

この時期は、蒸し暑さがピークになる時期であり、昔は赤痢や腸チフスなどがよく流行したようだ。また、大雨が降ると井戸水はよどみ、食中毒も頻発した。いつの頃からか、疫病退散のための祇園祭は、民衆が楽しむための祭としての要素が強くなっていった。

2014年、150年ぶりに大船鉾が復活し、前祭と後祭にわかれて巡行するようになった。山鉾巡行を見物していて楽しみなのはやはり、大きな鉾が勢いよく回転する辻回しだ。威勢の良いかけ声と鉾が軋みながらグイッとまわる迫力、見物客から沸き起こる拍手で、巡行はいっきに盛り上がる。

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辻回しの様子

ところで、この辻回し、よく考えてみると、とても魔除けの要素が強い。というのも、山鉾巡行で辻回しが行われるこの「辻」という場所は、そもそも古来より魔所といわれる。二つの道が十字型に交差しているところは、現世とあの世との境界とか、異界が交わる場所だとされてきた。辻には「辻神」と呼ばれる妖怪が棲んでいて、出喰わすとその人に災いがふりかかるという伝承が残っている地方もあるほどだ。

以前に紹介した「あわわの辻」もまた、京の人たちに恐れられた魔所だった。

魔所で行われる辻回しだが実は、鉾にはたくさんの魔除けアイテムを搭載されていることをご存じだろうか。まず前祭で巡行の先頭を行く長刀鉾が、その鋭い長刀で疫病邪悪を払ってくれている。

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長刀鉾

スムーズに鉾を方向転換するため、交差点に敷かれる青竹は魔除けの意味がある縁起物だし、音頭取りが手に持って打ちふる扇は昔から、空気を揺るがして魔を除け、神を招きよせると考えられてきた。お囃子ももちろん、笛や太鼓や鉦などの音色は魔を退散させる魔除けの意味がある。

山鉾巡行は見物客たちを楽しませるだけでなく、辻々でしっかりと邪気を払い、真夏の京都を浄めてくれているのだ。

ちなみに、会所で売られている祇園祭の名物の「ちまき」もまた、厄除けや福招きのアイテムである。ちまきを玄関の中ではなく外側に飾るのは、疫病神がひと目見てそれとわかるようにし、その侵入を防ぐためだそうだ。毎年、買いそびれているので、今年こそ手に入れて玄関先に飾って、ご利益にあやかって酷暑を健康に過ごしたい。

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玄関先に飾られている長刀鉾のちまき

京の禊ぎ。清滝の行者岩と空也の滝

広辞苑によると「禊(みそ)ぎ」とは、身に罪または穢(けが)れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること、と記されている。

昔、愛宕山に入る者は皆、愛宕山二ノ鳥居の傍を流れる清滝川(きよたきがわ)で禊ぎをしたという。

久しぶりに清滝に足を向けた。清滝川は清流を湛え、初夏にはカジカの澄んだ鳴き声が響き、鮎の群影を目にすることができる。何年か前、大雨の降った後に特別天然記念物のオオサンショウウオに出会えたことがあった!

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清滝川生息動物の看板

また、夏の清滝を訪れる楽しみは、自然の生き物たちに出会えるだけではない。市街地よりは5℃ほど気温が低く、金鈴橋や(きんれいきょう)下流の渡猿橋(とえんきょう)の上に立っていると、愛宕の霊峰から吹き下ろす涼風が川を渡って身を冷やしてくれ、心地よい。

その涼風に身を任せて金鈴橋より下流を見下ろしていると、大小の奇岩が座る渓流の中に、ひときわ背が高く、人目を引く奇岩があることに気づいた。まるで根岩から天に向かってにょっきりと突き出たように見える。その容姿は道祖神のそれだ。

しかも、その奇岩の傍の浅瀬には石で円く囲ったような跡が見てとれた。なんだか人工の水溜まり跡のようなので、地元の方に尋ねてみると、「あの大岩は修験者たちの聖地・熊野の大峰山の「のぞき岩」に形がそっくりなので、行者岩と呼ばれているんですよ。そして、あの岩の傍の水溜まりの跡のようなのは、禊ぎや水垢離(みずごり)をした跡ですよ。昔は、あそこで心身を清めてから山を上って愛宕神社へ参拝したものです」と教えていただいた。今ではもう、その光景は見られないのが残念。

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清滝川の行者岩

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愛宕神社への登り口

また、今でも禊ぎをする人に出会える場所が清滝にある。

その昔、空也上人が修行したといわれる「空也の滝」がそれで、金鈴橋から月輪寺方面へ向かって約30分ほど上った愛宕山中腹にその霊瀑はあった。

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空也の滝への参道

途中、滝へ向かう分岐点があり。苔むした岩場を踏みしめながら、水の流れに逆らって石段を上っていくと、しだいに辺りはひんやりして、厳かな雰囲気に包まれる。水神八大龍王の鳥居と空也と書かれた鳥居をくぐる頃には涼しげな滝の音が聞こえてくる。そして、水しぶきを上げる空也の滝に出会えた。

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空也の滝と鳥居

滝の傍には不動明王像や前鬼と後鬼を両脇に従えた役行者像が建立されている。滝の傍に立つと、冷気と水しぶきが身体に降り注ぎ、心身に溜まった日頃の垢が洗われていくようだ。

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空也の滝を見守る役行者と前鬼・後鬼の像

ここで滝にうたれていた武道家の男性に話を伺うことができた。その人は愛宕神社に詣でる前に必ず、ここで禊ぎをするのだそうだ。また、10年以上前のことだが、初めてここを訪れた時、不思議なおばあさんにめぐり逢ったことを覚えている。その方が口にされた言葉が、今でも印象に残っている。

「人は誰しも、因縁を背負って生きているものや。どの家庭にも大小こそあれ、悩みや病、争いの火種を抱えているもの。この滝にうたれると、身体がフワッと軽うなって、すっきりしますのや。ただ……」

と、いったん言葉をきり、おばあさんはこう言われた。長い間、滝にうたれていると、他人の因縁までが見えてくるようになったそうだ。

「ほら、あんたのも、よう見えます」

ぎょっ、となったのは言うまでもない。

京の風物菓子「水無月」と氷室

6月30日の夏越しの祓えには、水無月が欠かせない。三角形のういろうに小豆を乗せた和菓子で、三角のかたちは暑気を払う氷を模し、小豆は魔除けを意味するとのこと。そして、この菓子が生まれた背景には、平安時代の「氷室」の逸話があった。

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和菓子・水無月

当時、冷凍庫の役目を担ったのが、氷室と呼ばれた地下保冷倉庫だった。氷室は都よりグッと気温の低い山懐の地に、周囲約10m、深さ約3mの穴を掘ってこしらえられた。その中には茅などの草を厚く敷き、その上を風雨を防ぐ草葺きの小屋で囲い、そこに冬の間に氷の張った池から氷塊を切り出して保管していた。夏になると、都の貴族たちは氷室で貯蔵した氷塊を宮中に運ばせ、さまざまに加工して涼をとった。

平安時代には、京都周辺に氷室が6ヶ所ほどあったとされる。唯一、北区大宮西賀茂氷室町にある氷室跡は今も見ることができる。この氷室は標高約450mにあり、京都市内よりも6℃ほど気温が低く、昔、周辺は雪が多かったようだ。

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氷室神社

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氷室跡の石碑

さて、氷室から御所に献上された氷は、どのように使われていたのだろう。

平安時代の文学『枕草子』や『源氏物語』には、「削り氷(ひ)」が登場する。小刀で氷塊を削り、それに砂糖代わりに使われていたアマヅラの蜜をかけ、銀の器に入れて食されていたのが、削り氷だった。アマヅラはツタの汁を煮詰めたシロップのようなもので、現代のかき氷の先駆けといえる。また、『源氏物語』にはご飯に氷水をかけた水飯を食べるシーンや氷を肌に当てて涼むシーンも描かれている。平安時代の京都の夏も、とても暑かったのだろう。

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現代のかき氷

ところで、氷には他にも重要な用途があった。毎年元旦の節会には、宮内省に属し水に関することに従事した主水司が各地の氷室から氷の出来具合を報告させ、その年の吉凶を占った。氷が厚いと豊年、逆に薄いと凶年の兆しとされた。また、酒や食料の冷蔵保存としても用いられた。そして遺体の腐りやすい夏場は、現代のドライアイスの代わりに、遺体の腐敗防止に氷が活用されていた。三位以上の貴族にのみ、氷の使用が許されたという。

夏の間、氷室から宮中へ運ばれてきた氷の量は一日に500~800kg、年間約80tにものぼった。その作業を担当する役人と役夫は約800人いたと聞く。盛夏期には氷室から御所まで運搬作業が毎日続いた。氷塊は約112㎏の重さで、2人の役夫が緋幡の標識を立てた馬の口取りをして、夜明け前のもっとも涼しい時間帯に早駆けで搬送した。氷室の里から御所まで約10㎞の道のりを3時間ほどで運んだといわれる。

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古地図に見える氷室(真ん中上方)

酷暑の中、6ヶ所あったと言われる氷室から時間に急かされ、自分たちが決して口にすることのない重い氷塊を運ぶ作業は、過酷だった。時に、死人も出た。右京区宇多野にある宇多野福王子神社の本殿傍らの末社・夫荒社には、任務が果たせずに行き倒れた役夫や馬が夫荒神として祀られている。貴族たちが優雅に削り氷を口にしている裏で、多くの役夫や馬たちの命が失われていたのだ。

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宇多野福王子神社の末社・夫荒社

そうした氷は貴重で、庶民には高嶺の花だった。それでも彼らはたくましい。氷の代わりに、小麦粉でだんごを作って三角に切り、氷に見立てて食した。気持ちだけでも涼しく、という庶民の知恵と工夫の詰まった菓子、それが水無月の始まりだった。

この時期だけ京都の和菓子屋やスーパーで販売される、水無月。昔の氷室の役夫や馬たちの労働に敬意を払いつつ、水無月を食べて暑気と魔を払い、これから迎える本格的な夏を乗り切りたい。

 

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京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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