京を護る水の神「貴船」

「水は恐ろし 水は尊し」

京都市左京区鞍馬貴船町の山狭に鎮座する古社・貴船神社。その由緒を公式サイトで調べてみると、こんな言葉が目に飛び込んできた。「水害は恐ろしいが、水が無ければ命を繋ぐことはできない。山紫水明の京都の地に、千年以上も都が置かれたのも、この土地が豊かで美味しい水に恵まれていたからだろう。

四神相応のみやこ・京都。青龍にあたる東側には鴨川が南北に流れている。鴨川(賀茂川)の上流にある貴船神社の本宮には高龗神(たかおかみのかみ)、結社には磐長姫、奥宮に高龗神、一説には闇龗神(くらおかみのかみ)と玉依姫が祀られる。高龗神は日照りには雨を降らせ、長雨には晴天をもたらす水の神様として、古来より信仰をあつめてきた。高龗神は山上の龍神で、闇龗神は谷底暗闇の龍神といわれる。

古くは「貴船」を万物の気=エネルギーが生じる根源という意味で、「気生根」とも書いた。この地を訪れると、気力が湧いて運気が上がるといわれ、昔から参拝者が絶えない。京都は連日の猛暑で、最高気温が35度と聞けば「涼しい」と思えるほど。体力も気力もバテ気味のなか、「気生根」のエネルギーをいただきたい、と早朝の貴船を訪れた。

7月の豪雨で叡山電鉄は市原から折り返し運転をし、貴船口までは行けないため、バスを乗り継ぐ。貴船口から貴船川に添って、水音とむせかえる緑のなかを歩くこと30分。緑と朱の灯籠が美しい本宮への石段参道を上り、まず本殿に参拝した。


貴船川の清涼な流れ


貴船神社本宮の灯籠の並ぶ参道

その後、「水占い」のおみくじをひいてみた。おみくじを水に浮かべると、文字が浮き出すというもの。御神水におみくじを浸すと、文字が浮かび上がってきて、神秘的だ。浮き出たのは、「中吉」だった。大吉よりも今後の運気上昇の余地があり、いいんじゃないかと思いつつ、手順どおりにおみくじを結んで、結社へ向かう。


御神水に浮かべた水占い

結社は縁結びの御利益があるといい、平安時代の歌人、和泉式部の歌碑がある。和泉式部は夫の心を取り戻そうと貴船詣をしたことで知られる。境内には、貴船山から出てきたと伝わる長さ3.3mの天の磐船が鎮座していた。ここから、さらに結社から奥宮へ。


結社にある和泉式部の歌碑

結社にある天の磐船

奥宮は広い境内の奥に本殿が祀られている。参拝者はおらず、ひっそりとしていた。体感温度がスッと3度くらい下がったようだ。二の腕には鳥肌が立っていた。以前に「橋姫」や「鉄輪の井」の記事で紹介したが、ここが有名な丑の刻参りの舞台だ、と考えていたせいかもしれない。丑の刻参りは、藁人形を木に打ち付けて相手を呪うというが、その様子を人に見られると、成就しないそうだ。


貴船神社の奥宮

ところで、奥宮の本殿の真下には、「龍穴」があると聞く。龍穴とは気が満ちて吹き上がり、繁栄をもたらす場所とされるが、江戸時代、社殿を修理していた大工が落としたノミが突風に吹き上げられた話も残る。また、すぐ傍には船形石がある。昔、玉依姫命が水の源を求めて黄色い船に乗り、淀川・鴨川を遡って、その源流の貴船川の上流にたどりつき、水神を祀った。乗ってきた黄色い船は石で包んで人目につかぬよう隠した伝説に基づく。


奥宮にある御船形石

実は本宮→奥宮→結社の順に参拝すると良いらしい。本宮に挨拶し、奥宮で悪い縁を切ってもらい、最後に結社で良縁を結んでいただくとのこと。次回は、そのように参拝しようと思う。帰路、貴船口までバスを使わずに歩いて戻ることにした。清々しい空気と快い水音、良い汗をかいて、気生根パワーをいただいき、夏バテ気味のカラダのすみずみまで爽快になった。京都は山や水、神様に護られた都だと、あらためて感じた参拝だった。

 

今回で「京都の摩訶異探訪」の連載100回を達成、一区切りです。これまで愛読くださり、ありがとうございました。

お盆の精霊を冥土へ、寺町三条・矢田寺の「送り鐘」

お盆の8月13日に迎え火を焚いて先祖の霊を迎え、16日には送り火を焚いて先祖の霊を送り出す。送り火といえば、京都では五山の送り火がよく知られる。今年は新型コロナの流行で規模縮小となったが、やはり五山の送り火は京都人にとって、欠かすことのできない行事だ。

ところで、京都で先祖の精霊を送り迎えするのは、何も送り火・迎え火だけではない。「迎え鐘」と「送り鐘」というのがある。8月初旬、東山の六道珍皇寺では六道まいりをし、先祖の精霊を迎える。寺の境内には、音色が冥土まで届くといわれる「迎え鐘」があり、鐘をつく人の長蛇の列が出来る。


六道まいり

そしてお盆が終わり、精霊たちは冥土へと還っていく。その時につく鐘が「送り鐘」だ。送り鐘は寺町三条にある寺町専門店会商店街に建つ矢田寺(やたでら/矢田地蔵尊)にある。この寺の鐘をつくと、精霊たちは迷わず冥土に還ることができるという。

矢田寺は平安時代の初期、大和国(現・奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門に建立されたのが、その後、この地に移されたという。寺は人通りの多いアーケードの商店街に溶け込むように建ち、京都らしい風景のひとつとなっている。


アーケード街に溶け込む矢田寺


矢田寺と送り鐘

寺の本尊である「地蔵尊(矢田地蔵)」には、不思議な逸話が残る。寺を開山した満慶(満米)上人は、冥土で出合った地蔵菩薩が、地獄で苦しむ人々を救っている姿を見て感銘を受け、現世に戻って仏師に彫らせたものだと伝わる。「代受苦地蔵」とも呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として信仰を集めてきた。満慶(満米)上人は、平安時代初期の官僚で、夜な夜な六道珍皇寺の井戸から冥土へ出入りした伝説の持ち主である小野篁(おののたかむら)ともゆかりが深い。というのも、ある日、閻魔大王が篁に、「菩薩戒(菩薩になるための修行の戒律)を受けたいが、誰かよい人物はいないか」と問う。そこで篁が閻魔大王に紹介した人物が、矢田寺の満慶(満米)上人その人だった。上人は篁に連れられ、井戸を伝って冥土へ行く。その際、上人は地獄を見てまわることを許され、そこで遭遇したのが、先に紹介した地蔵尊だったというわけだ。

ちなみに、閻魔大王から菩薩戒を授けた礼に、上人は米の入った手箱を渡される。米は使っても使っても減らず、周囲の人々は不思議がった。上人は貧しい人々に米を配ったのだろう、いつしか人々は上人を「満米上人」と呼ぶようになったそうだ。『矢田地蔵縁起絵巻』には、この話が載るが、閻魔大王が菩薩戒を受けたのではなく、小野篁が受ける話になっている。

さて、京都では長梅雨の後、猛暑日が続いている。コロナ禍で何かと気分も落ち込みがちの中、なんとか精霊送りの日を迎えることができた。今年は矢田寺の送り鐘をついてご先祖様たちを無事に冥土へ送り、日々の安寧と新型コロナの収束を願う一日にしたい。


矢田地蔵尊

北山・盗人峠、西山・松尾山で遭遇した京都の山の怪

今年も8月10日の『山の日』が近づいていた。トレイルやハイキングの仕事で山を歩くと、街歩きでは出合えない「不思議」や「恐怖」に遭遇することがある。

東山・北山・西山と三方を山に囲まれ山紫水明の京都。山は古くから信仰の対象となり、地元の人に親しまれてきた。重装備の要らない、比較的なだらかな山がほとんどだ。それでも、これまでツキノワグマとニアミスしたり、足もとにクネる蛇にぎょっとしたり、ヤマビルに吸われて足が血だらけになったり、目の前に動物の骨が落ちていたりした。

山で見つけた熊に注意の標識

北山に「盗人谷」という名の峠がある。その名の由来は、昔、この辺りに盗賊が隠れ住んでいて、夜な夜な都に下りて盗みをしたからとも聞く。峠を歩いていた時のこと、昨年の台風で山は荒れていた。


北山の盗人谷へ向かう

他にハイカーも見当たらず、昼前だというのに、辺りは木立に遮られて薄暗い。枝を踏む自分の足音しかしない。すると、 

きききき、きききききぃ、きぃきぃきぃきぃぃぃ……。

しん、とした静寂のなかを裂いて、鳥の鳴くような声が頭上から降ってきた。立ち止まって、辺りをうかがうと、鳴き声もやんだ。樹間に目をこらしても鳥の影もなければ、羽音も聞こえない。また歩き出すと、ききききき、きぃきぃきぃ、と聞こえてくる。しかも、歩く速度に合わせるように声が付いてくる。立ち止まると、鳴き声も、やむ。また、歩き出す。声も少し後ろを同じ速度で追ってきた。

山に棲む妖怪だろうかと思ったが、どうやら、風が吹いて樹木の枝葉がこすれ合って出す音のようだった。枝葉がこすれる度、きききききと鳥のような、まるで天狗(こんな声で鳴くのかは知らない)かと思うような声を出す。正体がわかって、ホッとした。けれども自分が歩みをとめると、風もやみ、歩き出すとまた風が吹いて枝葉がこすれ合ったのか、そこは、いまだ謎のままだ。

 

もうひとつ、別の日に取材で「松尾山」を歩き終えた時のこと。暑くて、疲れもあり、もう帰路につくことだけで頭いっぱい。急ぎ足で苔寺の方へ歩みを進めていた。

ふと、チリーン、と澄んだ音色が聞こえた。もう一度、チリーン、と鳴る。振り返って、音のした方へ戻ってみると、「山の神さん」と刻まれ、しめ縄のはられた岩が祀られていた。駒札によると、昔、この辺りに山の神神社があったようだ。

地元の人は山に入る時、この岩に仕事の安全と山の恵みに感謝した、とある。今でも山に入るすべての人を守護しているという「山の神さん」に、「ケガなく、無事に歩き終えることができました」と報告かたがた手を合わせ、松尾山を後にした。


山の神さん

それにしても、チリーンという音が聞こえてこなければ、山の神様を素通りした失礼な人間になってしまっていただろう。あの音は何だったのだろう? 仏具のりんの響きに似ていたのだが。

以前、山で進むべき道が消え、迷った体験を書いた。京都の山は低山とはいえ、あなどれない。千年以上も修行僧や修験者、村人が行き来してきた山である。これからも山にお邪魔する時は出合った不思議を楽しみつつ、敬意を払って歩きたい。


松尾山頂からの眺望。こういう景色も山歩きの魅力

安倍晴明が呪力を見せつけた「遍照寺」

平安時代の陰陽師、安倍晴明は式神(しきがみ、しきじん:陰陽道で主に使用される呪術のうちのひとつ)を駆使したと伝わる。晴明の邸を訪ねた客は、誰もいないのに門が開閉し、驚いたという。これも、実は人の目には見えない式神が開閉していたといわれる。

晴明が使ったとされる式神は、2種類ある。ひとつは一条戻橋に隠していた十二神将。もうひとつは、紙や木片、葉っぱといった本来は無生物のもので、それに呪力を加えて、生物のように操った。晴明は後者の式神を使って、その場にいる者たちの肝を潰したという。

その舞台となったのが、右京区嵯峨広沢にある遍照寺(へんじょうじ)だった。


規模は小さくなったが、現在も存在する「遍照寺」

寺は花山天皇の御願により、宇多天皇の孫にあたる僧寛朝が建立した。当時は広沢池の池畔に釣殿や月見堂を設けた壮大な伽藍を構えていたが、応仁の乱で荒廃し、現在の寺は江戸時代に再建されている。

ある日のこと。晴明は遍照寺の寛朝僧正を訪ねた。その時、寺にいた若い公達たちが、晴明を見て面白半分に「式神の術で人を殺すことができますか」と尋ねた。晴明は、「人は簡単ではありませんが、虫などは容易に殺すことができます。ただ、殺してしまえば生き返らせることはできませんから」と応えた。ちょうど、寺の庭を数匹の蛙が跳ねて目の前にひろがる池の畔へ向かうところだった。それを目にした公達たちは、「それでは、あれを殺してみてください。あなたの力を見てみたいのです」とせがむ。

彼らのなかには、本当にそんなことができるのか、ちょっと困らせてやろう、という悪意が潜んでいたのかもしれない。晴明はしかたない、といった様子で、庭に生えていた草の葉をつみとって呪を唱え、蛙に向かって投げた。と、葉は一匹の蛙の上にふわっとかぶさった。とたんに蛙はペシャンコに潰れて、あっけなく死んでしまった。それを目の当たりにした者たちは顔色を変え、声もなく、震え上がったそうだ。このエピソードは『今昔物語』や『宇治拾遺物語』で紹介されている。

蛙が向かおうとした池というのは広沢池のことで、昔からこの地は風光明媚な場所として知られていた。平安貴族たちは「千代の古道」と呼ばれた道を通ってここを訪れ、観月を楽しんだり、多くの和歌を詠んだ。もともと広沢池は遍照寺の創建時に造られたというが、一説には豪族秦氏がこの地を開墾する際に造った溜め池だともいわれている。

現在の広沢池の周囲は約1.2km。嵯峨の山並みを望み、水鳥が羽を休め、水底をのぞき込むと、今では珍しくなったザリガニが生息している。安倍晴明の陰陽師としての力や彼らた生きた時代の風景を想像することのできる、数少ない場所のひとつである。晴明は天文学にも優れていたそうだが、新型コロナウィルスが流行し、豪雨災害が続く今、晴明が蘇ったとしたら、どのように対処しただろう。


廣澤の池と刻まれた石碑と広沢池

明智光秀の娘、信仰に生きた細川ガラシャゆかりの宮津へ

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 
花は花なれ 人も人なれ

明智光秀の娘、細川ガラシャの辞世の歌だ。

戦国時代、ガラシャは波乱の生涯を送る。
ガラシャゆかりの地、京都府北部の宮津市の民家で偶然、細川ガラシャゆかりと伝わる庭石に出合った。高さは1.2mほどだろうか。さほど広くはない庭先で、石の存在感が際立っている。

細川ガラシャのプロフィールをざっとたどってみる。明智光秀の三女といわれ、名を玉(玉子)といった。美しく聡明だったといわれる玉は、織田信長の命で細川藤孝(幽斎)の息子で同じ16歳の忠興と結婚する。光秀と細川藤孝は盟友だった。それに信長の口添えだったこともあって、当時、ふたりの結婚は羨望の的だったという。ところが、玉が幸せだったのはほんの数年。おもってもみない悲劇に見舞われる。本能寺の変だ。

父の光秀が主君の織田信長を討ち、豊臣秀吉に敗れたことで、玉の人生は一変。城主の奥方から謀反人の娘に転落する。その頃、丹後の宮津城に暮らしていた玉は人里離れた丹後の味土野(みどの)の地に約2年間、幽閉。忠興との復縁をゆるされた後も、大阪での生活は幽閉に近いものだった。心の行き場を失った玉はキリスト教への信仰に目覚め、洗礼を受け、ガラシャとなった。その後、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成方の人質になるのを拒み、家臣の手で命を絶ち、燃える城の中で生涯を閉じた。


教会を背後に立つガラシャ像

そのガラシャが2年の間、味土野の地に幽閉されたとき、彼女のための館が築かれた。玉の住まいとして女城、谷を隔てて警備する者たちが住む男城があったとされる。館を築く際に、丹後地方の谷から岩や木が切り出された。その切り出した岩の一部だと伝わる石が、先に紹介した民家の庭先に残っていた。


(左)玉(ガラシャ)の味土野の館を造る際に切り出されたと伝わる庭石(右)大手川ふれあい広場に立つガラシャ像

家の方にお話を伺うと、もとは丹後の味土野より少し西北に位置する弥栄町で古くから茶屋をしていた実家にあったものだそうだ。代々、「ガラシャさんの館を造る時に切り出した石の一部や」と伝え聞いていたという。その経緯は聞いていないが、「館に使われなかった石を、先祖が何かのツテでもらってきたんやろう」とのこと。

そして、「ガラシャさんの命日が近くなると、着物姿の女性の影がスッと石に映ると言われています。ガラシャさんやないかと思うのですが、私はまだ見たことがないのです」と、つけ加えられた。

約400年を経て、光秀が主役の大河ドラマ放送の年にガラシャゆかりの石に出会えるのも、何かの縁だ。間近で見ると、あきらかに切り出した跡があり、天然のままではないとわかる。細川ガラシャ(玉)の悲劇も含め、それよりもっと前の時代から、さまざまな歴史を見てきた石だといえる。石が何かを語りかけてくるわけではないが、触ってみると、なんとなく指先から悠久の時の流れが染み込んでくるような気がした。


玉と忠興が暮らした宮津城から移築された太鼓門


海城である宮津城から天橋立が眺められた。見づらいが、山と海の境に緑の線が横たわっているのが、天橋立

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京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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