絶景ポイントの表と裏! 落合トンネル(隧道)の怪

トンネルに関する都市伝説は、やはり「出る!」というもの。京都にもその手の噂があるトンネルが幾つかある。その一つが、落合トンネルだ。

落合トンネルへは、清滝から清滝川の渓流沿いを行くルートと嵯峨六丁峠を越えていくルート、JR保津峡駅からのルートがある。トンネル名となった落合の地名は、清滝川と保津川が合流する地点をいう。そこに落合橋が架かる。木々の緑の中で赤い橋は目にも鮮やかだ。昔から周辺は、紅葉スポットとして賑わった場所でもある。

ochiaibashi01

緑に映える落合橋と清滝川

私たちが奥嵯峨の古道探索の取材を終え、帰路、府道50号線をJR保津峡駅へ向かっていた時のこと。落合橋を渡って、すぐにある落合トンネルに足を踏み入れた。トンネルは車幅約4m、延長80mほど、向こうに出口の明かりが見えている。

ochiaibashi02

落合橋と落合トンネル

トンネル内は暗く、ヒンヤリしていた。

出口に近づいた時だった。突然、背後から

「国鉄保津峡駅へ行かれるのですか?」

と声を掛けられた。振り向くと、ハイカーらしき年配の男性だった。「トンネルを抜けた先に、絶景が見られる場所がありますよ」と教えてくれた。「ぜひ、見たい」というと、案内してくれるという。

さっそく男性に続いて、通り抜けた落合トンネルの左脇から保津峡へ伸びる土道をトンネルの山際に沿って進んでいった。男性の背負ったリュックは随分くたびれていて、相当あちこちを歩いているようだった。土道がカーブにきたところで、わーっ、と声が出た。眼下に絶景が広がったからだ!

ochiaibashi03

絶景ポイントから見た保津川下り

私たちが立っている場所は、保津川の切り立った巨岩のちょうど真上辺り。真下に飛沫をあげ、迫力満点の保津川の流れがあった。景色を堪能していると、上流から、キャア、キャアとにぎやかな声が聞こえてきた。眼下に保津川下りの船が姿を現した。船頭さんが荒い岩場を熟練した技で櫂を操っていく。こんな場所に絶景があったとは!

ところが、この辺りは絶景の裏側で、多くの事故が報告されている。ハイカーや山菜採りの人がたびたび保津川へ転落、水死する人が出るという。保津川下りの船頭さんが遺体を発見することが多いそうだ。

また、この場所からさほど離れていない場所では、過去に、金閣寺放火事件で知られる僧の母親が、金閣寺へ謝罪に行った帰り、当時の国鉄山陰線の汽車から保津川へ飛び込んで亡くなっている。その遺体を運んだのも船頭さんだった。そして昨年、保津川下りの船長さんが川へ転落死されたニュースは記憶に新しい。これまでに水難・滑落事故や飛び込みなど、多くの死者を呑み込んできたのも、清滝川や保津川のもう一つの姿だった。

眼下の景色をカメラにおさめ、そういえば、この絶景を教えてくれたハイカーの男性に、お礼をまだ言っていないことに気がついた。だが、あれっ、その男性の姿がない! 

周囲を見渡すと、岩肌にへばりつくように細い道が先へと続いていた。ああ、きっとこの道を行かれたのにちがいない。けれども、「お先に」とも言わずに黙って行ってしまうなんて、変わった人だなと思った。

そうして先程の分かれ道に戻った。目の前には落合トンネルがあり、暗い穴の向こうに、赤い橋が見えている。昔は、あの落合橋から眼下の清滝川に飛び込んで亡くなる人があったらしい。トンネル内から涼しく湿った風が吹いてきて、汗の浮いた首筋を撫でた。ふいに、さっきのハイカーが「国鉄」と言っていたことを思い出した。それなのに、ハイカーの顔は、思い出せない……。

ochiaibashi04

昭和初期の落合橋の絵葉書。
まだトンネルは出来ていない(著者所蔵)

私たちはなんとなく落ち着かない気分になって、トンネルに背を向け、JR保津峡駅を目指して歩き出した。自然と早足になったのは、言うまでもない。こういう体験が、都市伝説になっていくのだろうか?

ochiaibashi05

昭和初期の絵葉書。
奥に落合橋が見える(著者所蔵)

平安京の都市伝説「一条戻橋」と安倍晴明

今年9月26日は平安時代、稀代の陰陽師として名を馳せた安倍晴明の命日にあたる。今でも京都の人から、「晴明さん」と敬い親しまれるこの人物にまつわるエピソードは、とにかく超人的だ。

ichihjo_modoribashi01

晴明神社境内の安倍晴明像

母親が狐だとする説をはじめ、少年時代に下京の町を歩いていて、師匠より先に百鬼夜行に気づいて難を逃れたとか、術くらべで箱に入った柑子をすべて鼠に変えたとか。占いで花山天皇の頭痛の原因を突き止めたり、一条戻橋の下に式神(十二神将)を隠していたなど……。

ichihjo_modoribashi02

晴明神社境内にある「泣不動縁起絵巻の折りつづれ絵馬 」。
祈祷を行う晴明の後ろに2人の式神、祭壇の向こうに5匹の化け物がいる

その晴明が式神を隠していたとされる一条戻橋は、古来より鬼にまつわる伝説が多い。現在、一条戻橋は上京区の一条通堀川にひっそりと掛かっているが、平安時代の都人はこの橋に多いに注目し、怖れてもいた。

ichihjo_modoribashi03

一条戻橋

延喜18年(918)、文章博士三善清行の息子・浄蔵が熊野参詣の帰路、この橋で父の葬儀に出会った。浄蔵は嘆き悲しみ、棺にすがって神仏に祈ると、清行は蘇生したといい、そこから戻橋と呼ばれるようになったと伝わる。

また、夜更けに橋で百鬼夜行に遭遇した若者が、鬼に唾を吐きかけられて姿が消えてしまう話や渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所としても、名高い。かの『源氏物語』にも、「ゆくはかえるの橋」としてこの橋が登場する。都人の間では一条戻橋のゾッとするエピソードは、今でいう都市伝説化していたようだ。

興味深いことに、この橋の西側には安倍晴明の邸があり、橋の東側には鬼や土蜘蛛退治で有名な源頼光の邸があったのは、偶然ではないだろう。

元来、橋は井戸や川などと並んで、あの世とこの世の境界とされてきた。川の両岸を行き来できる橋は神聖なものでもあったが、魑魅魍魎(ちみもうりょう)も行き来することができるという観念から、特別な空間と捉えられてきた。

特に、一条戻橋は平安京最北の一条通にあることから、橋の向こう側は異界とされた。

また、昔は一条通で二つの川が合流しており、流れがぶつかってできる水泡から異界のモノが出て来るとも考えられていたようだ。一条戻橋の両側にゴーストバスターの邸を配置することで、都への魔の侵入を防ごうとする意図がうかがえる。ここは後世、豊臣秀吉が自分に逆らった千利休の首を晒した、いわく付きの場所でもある。

現在でも一条戻橋は、縁談のある人は避ける習わしがあり、逆に旅人は橋を渡ると必ず戻って来られると、橋を渡って出立する人もあるという。ところで、なぜか東から西へ、渡らなければいけないらしいのだが……。

この一条戻橋から堀川通を隔てて少し北に、安倍晴明を祭神とする晴明神社がある。もとは安倍晴明の邸跡だった場所だ。

ichihjo_modoribashi04

晴明神社一の鳥居

一の鳥居の額の社紋「晴明桔梗」は、五芒星ともセーマンとも呼ばれ、魔除けや災害避けの祈祷呪符のひとつである。

ichihjo_modoribashi05

晴明神社境内のあちこちに見られる晴明桔梗紋

今でも伊勢志摩の海女の間では、危険な海の仕事から身を守ってくれると信仰されている。

9月22日、晴明神社で例祭「晴明祭」が催される。宵宮では「御湯立神楽」などが奉納され、例祭当日は神輿渡御があり、境内には露店が立ち並び、参拝者でにぎわう。

平成の世、参拝者たちは稀代のゴーストバスターにどんな魔物退治を願うのだろうか。

「仲秋(中秋)の名月」の霊力と神秘

平安時代の都人は、月を愛で、敬い、そして怖れてもいた――。

1年で最も大きく、美しく見える「仲秋(中秋)の名月」の日が近づいてきた。この時期、京都市内のあちこちで観月祭が行われる。照明器具の発達によって夜の街は明るく、月の光に頼る必要がなくなった現代、その存在感はすっかり薄れてしまったが、この時期ばかりは「月」は主役の座に返り咲く。

meigetsu01

仲秋の名月

天体観測などできなかった時代、古人にとって月は神秘そのものだった。満ち欠けを繰り返し再生する月は、人の生と死のくり返しと重ねられ、不老不死の力を持つと信じられてきた。人びとは闇が支配する夜を嫌い、満月を仰ぎ見ては、暗い夜の向こうにある常世の国(あの世)から光が差しているというイメージを抱いた。月の光は「この世」と「あの世」をつなぐ通路で、その光の穴を通ってあの世へゆけるのが死者であり、あの世で再び生まれ変わるのだと考えられていた。

月の向こうに異世界がある――という考え方をよく表している古典文学に、『竹取物語』がある。

meigetsu02

竹取物語. 下(国立国会図書館ウェブサイトより転載)

お話はご存知の通り、竹から生まれたかぐや姫が美しく成長し、求婚者たちを退け、満月の夜、使者とともに月へ帰ってゆくものだ。かぐや姫が生まれた竹は、洛西の竹の名所・大原野の竹林だとも言われている。

また、大和朝廷に使えていた隼人族と呼ばれる海洋南方民族は、竹の加工に熟達し、月信仰を持っていた。かぐや姫が月へ帰った旧暦八月十五日の満月の夜は、隼人族にとっても満月を讃える「八月十五夜祭」の夜だったことから、隼人族の居住地だった京田辺は『竹取物語』発祥の地のひとつに数えられている。

ただ、月はその霊力を崇められた一方で、怖ろしいものでもあった。

『竹取物語』の中にも、月の顔を見るのは忌むべきこととあるように、平安時代以前は満月をじっと見て物思いに耽ると気がふれるといわれ、月を直に見ることはタブー視されていた。

以前、私たちは、京都近郊に住む古老から、満月に関する興味深いお話を伺ったことがある。その古老の家では代々、月待ち(満月)の夜は外に出歩くことをしない、と言うものだった。というのも「夜、満月に照らし出された自分の影を後ろから来た者に踏まれ、追い越されたら、近いうちに死ぬ」と、小さい頃から父母や祖父母から聞かされていたという。だから成人した後でも、月待ちの夜は出歩かず、サッサと寝てしまったとのこと。ちょっとゾッとするエピソードだ。

meigetsu03

銀閣寺「月待山月夜の宴」古絵葉書(著者所蔵)

神秘的なものを敬う気持ちと、怖がる気持ちはやはり、紙一重なのかもしれない。

 

ところで、京都で観月の宴が催されるようになったのは、いつ頃だろうか?

取材で得た情報では平安時代初期、文徳天皇の御代に観月の宴が催されたのが初めで、その後、醍醐天皇の御代、寛平九年(八九七)、旧暦八月十五日に月見の宴が行われ、風習化されたという。また、貴族たちは宮中やそれぞれの邸宅で詩歌管弦の宴を催し、池に船を浮かべて揺らぐ月を楽しんだようだ。

meigetsu04

平野神社の名月祭

京都には大覚寺の大沢池、嵐山の渡月橋など、月の名所が多い。今年も平安時代の名残を感じながら、観月の宴に足を運び、名月の神秘に触れたいと思う。ただ、くれぐれも人に影を踏まれないよう、足もとに気をつけながら……。

生者と死者の世界を分ける、あの世とこの世の境の地を行く

古くから京都では、あの世とこの世の境目だと信じられてきた場所があった。京都三大葬送の地のひとつとして知られる、東山の鳥辺野の入口「六道の辻」が、それだ。

平安時代、貴族など一部の人を除いては、人が亡くなると、遺体は野辺送りし、同道した人たちは、六道の辻で死者との最後のお別れをした。この辻から先に風葬(野ざらし)していたので、あちこちに遺体が転がっていて、腐臭を発し、人骨が散乱した死者の世界が広がっていたのだという。

その生者と死者の世界を分ける六道の辻に、六道珍皇寺がある。

毎年、8月7日から10日まで、この寺では精霊迎えの行事「六道まいり」が行われる。夕暮れ、私たちは提灯に灯が入った六道珍皇寺へと足を向けた。この日の最高気温は37度。陽が落ちても暑さは去らない。

rokudo01

六道珍皇寺へ

門前や参道では盆花と高野槙が売られていた。高野槙は霊が宿るとされる霊木で、精霊はそれを依り代にしてこの世に戻ってくるといわれる。

rokudo02

六道珍皇寺で売られている高野槙

境内には高野槙の青い芳香が立ち込め、ムシムシした空気を幾分浚ってくれた。ゴォォン、グォォンと絶え間なく響くのは、「迎え鐘」の音だ。参列者が次々と冥途へ届くと伝わる迎え鐘を撞いていた。

実は、この寺の境内には不思議な伝説を今に残す井戸がある。

古来よりその井戸の底は冥途に繋がっていて、高野槙をつたって降りていくとあの世へ行くことができると、京の人びとに信じられてきた。『今昔物語』に、その井戸を使って、夜な夜な冥途へ出かけていた人物の話が載る。その人物こそが、平安時代初期に実在した小野篁だ。官僚で漢詩人でもある篁は、昼間は宮廷に使え、夜は六道珍皇寺の井戸から冥途へ行き、閻魔大王の片腕として働いていたといわれる。

rokudo03

六道珍皇寺境内の提灯(六道の辻。あの世への入口がある)

10年ほど前に京都の魔界の取材で六道珍皇寺を訪ねた時、篁が冥途へ通っていたという井戸を見学させていただいた。当時、井戸は途中までぎっしりと枯葉で埋まっていた。また、井戸は涸れ井戸で水を汲んだ形跡はないとのことだった。ちなみに、この井戸の周辺を彫ると、地蔵がゴロゴロと何体も出てきたという。

その篁伝説の主人公・小野篁は当時の平均身長をはるかに超える、約186㎝の大男だった。それに秀でた漢詩人であり、帝にさえ恐れずもの申したこと、しかも鳥辺野を含む京都三大葬送地、つまりはあの世の管轄人だったことなどが、人びとを恐れさせ、奇怪な伝説を生んだに違いない。

その篁を忍ぶ像が、閻魔大王像と並んでこの寺のお堂に祀られている。六道まいりの期間は格子戸が取り払われ、直に像を拝することができる。撮影禁止のため、目に焼きつけた篁像は伝説通りに堂々とした偉丈夫で眼光鋭く、あの世とこの世をじっと見定めているかのようだ――。

さて、この六道の辻のエリアには、死して墓の中で子を産んだ女が、我が子のために幽霊となって飴を買いに来る伝説を残す「幽霊子育飴」の老舗や、六道まいりの間、地獄絵(六道絵)や死体が朽ち果てていく様子を九段階で描いた檀林皇后九相図が公開される、西福寺がある。

rokudo04

子育幽霊飴の提灯

風葬の習慣が失われた今でも六道の辻の名残を見ることができるのは、いかに京都の人がこの地を恐れつつも敬ってきたか、ということに尽きるだろう。

京都のお盆は六道珍皇寺の六道まいりで先祖の精霊を迎える。

そして、その精霊は家族としばし過ごした後、16日の五山の送り火で、再びあの世へ帰って行くのだ。

妖しき伝説と実話を残す、嵐山の裏名所

京都を代表する景勝地「嵐山」。この地は昔も、桜や紅葉を愛でる別業(別荘)の場所として、都の貴族や権力者たちに親しまれてきた。

だが、日が暮れれば狐狸妖怪の棲む、寂しい洛外の地でもあった。嵐山を「あやしやま」と呼んだ人もあったという。

002_arashiyama_01

嵐山といえば渡月橋

その嵐山には、事実に基づいた次のような伝説が今に残っている。

明応9年(1500)のこと、後土御門天皇が崩御され、喪に服す間、殺生が禁じられた。保津川を漁場とする一人の漁夫は、喪が明けるまでの間、上流から嵐山へと筏を流し送る仕事をはじめた。その漁夫には商家に奉公に出した息子があった。だが、息子は主人の娘と叶わぬ恋に落ち、剃髪して保津川の上流にある荒れた御堂に隠れ住んでいた。

ある日、息子は恋しい娘が御堂の奥へ入っていくのを見て、気が狂わんばかりに後を追う。しかし、そこで見つけたのは娘に瓜二つの観音菩薩だった。彼は観音像を娘だと思い込もうとするが、やがて絶望し、保津川へ身を投げる。

一方、漁獲が解禁になり、漁夫は再び川へ投網を開始した。すると、経験した事がないほどの手応えが。「大漁だ」と漁夫は喜び、網をたぐり寄せて、仰天した。なんと、網の中身は、観音菩薩の像を抱いた息子の亡骸だったのだ。

この伝説は、明治31年にイギリスから日本にやって来た博物学者・リチャード・ゴードン・スミスも、日本滞在中に採取したとして記しているのだが、漁夫の息子の死体があがった場所までは書かれていない。おそらくこの辺りではないかと思うのが、嵐山の保津川右岸にある「千鳥ヶ淵」だ。

久しぶりに、私たちは千鳥ヶ淵へ足を進めた。渡月橋小橋を渡って右へ折れ、保津川沿いに大悲閣へ向かう散策道を歩く。

002_arashiyama_02

渡月橋を大悲閣への散策道から眺めてみた

しばらく行くと上り坂があり、その坂を下り終えると、川岸に岩肌が広がる。この辺りが、昔から「千鳥ヶ淵」と呼ばれる嵐山の裏名所である。

 

この淵は、平安時代の末期、平清盛の建礼門院の侍女・横笛が身を投げたと伝えられる場所でもある。千年も前の伝説だと片付けられないのは、昭和に入っても、密かに「自死の名所」などと噂が囁かれ、この淵に身を投げる者が相次いだからだ。

002_arashiyama_03

大正末〜昭和初めの千鳥ヶ淵辺りを取った絵葉書(著者所蔵)

10年ほど前のこと。私たちは取材中に、以前この千鳥ヶ淵の浜で茶店を営んでいた老女に話をうかがう機会を得た。

その老女は茶店を営んでいた時に、川で溺れていた人を三度ほど助けたという。地元の方の話では、この辺りだけ水深が極端に深く、地形のせいか流れの勢いが失われているそうだ。さらに水底は渦を巻いているともいわれ、遺体が巻き込まれるとなかなか浮かび上がってこず、浮かびあがってきた時には、死蝋化していることが多いらしい。淵の水面に向って撮影すると、水の波紋が人の顔のように映るとも聞くが……。

10年前に訪れた千鳥ヶ淵は、生い茂った樹木の枝が水面に覆い被さり、陰鬱な雰囲気を際立たせていた。それが3年前の大雨で渡月橋の付近が水没した後に改修工事がなされたのか、今は川の流れを一望でき、夏の陽ざしを浴びた水面はまばゆく輝いていた。

002_arashiyama_04

千鳥ヶ淵

ただ、陽ざしが明るいほど、陰は濃くなるものだ。観光名所としてにぎわう傍に、悲しい伝説や凄惨な出来事が潜む裏名所があることも、京都の奥深い一面なのかもしれない。

摩訶異の入口へ戻る

京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

摩訶異を検索

新着記事

カテゴリー

アーカイブ

SNSも更新中!

最新情報、注目イベント、
オススメショップを見逃さない!

メルマガ会員登録

WebLeaf から更新情報や
おすすめイベントをひと足早く配信中!

プレゼント応募

Leaf & WebLeaf 読者への
スペシャルギフトが毎月更新中