生者と死者の世界を分ける、あの世とこの世の境の地を行く

古くから京都では、あの世とこの世の境目だと信じられてきた場所があった。京都三大葬送の地のひとつとして知られる、東山の鳥辺野の入口「六道の辻」が、それだ。

平安時代、貴族など一部の人を除いては、人が亡くなると、遺体は野辺送りし、同道した人たちは、六道の辻で死者との最後のお別れをした。この辻から先に風葬(野ざらし)していたので、あちこちに遺体が転がっていて、腐臭を発し、人骨が散乱した死者の世界が広がっていたのだという。

その生者と死者の世界を分ける六道の辻に、六道珍皇寺がある。

毎年、8月7日から10日まで、この寺では精霊迎えの行事「六道まいり」が行われる。夕暮れ、私たちは提灯に灯が入った六道珍皇寺へと足を向けた。この日の最高気温は37度。陽が落ちても暑さは去らない。

rokudo01

六道珍皇寺へ

門前や参道では盆花と高野槙が売られていた。高野槙は霊が宿るとされる霊木で、精霊はそれを依り代にしてこの世に戻ってくるといわれる。

rokudo02

六道珍皇寺で売られている高野槙

境内には高野槙の青い芳香が立ち込め、ムシムシした空気を幾分浚ってくれた。ゴォォン、グォォンと絶え間なく響くのは、「迎え鐘」の音だ。参列者が次々と冥途へ届くと伝わる迎え鐘を撞いていた。

実は、この寺の境内には不思議な伝説を今に残す井戸がある。

古来よりその井戸の底は冥途に繋がっていて、高野槙をつたって降りていくとあの世へ行くことができると、京の人びとに信じられてきた。『今昔物語』に、その井戸を使って、夜な夜な冥途へ出かけていた人物の話が載る。その人物こそが、平安時代初期に実在した小野篁だ。官僚で漢詩人でもある篁は、昼間は宮廷に使え、夜は六道珍皇寺の井戸から冥途へ行き、閻魔大王の片腕として働いていたといわれる。

rokudo03

六道珍皇寺境内の提灯(六道の辻。あの世への入口がある)

10年ほど前に京都の魔界の取材で六道珍皇寺を訪ねた時、篁が冥途へ通っていたという井戸を見学させていただいた。当時、井戸は途中までぎっしりと枯葉で埋まっていた。また、井戸は涸れ井戸で水を汲んだ形跡はないとのことだった。ちなみに、この井戸の周辺を彫ると、地蔵がゴロゴロと何体も出てきたという。

その篁伝説の主人公・小野篁は当時の平均身長をはるかに超える、約186㎝の大男だった。それに秀でた漢詩人であり、帝にさえ恐れずもの申したこと、しかも鳥辺野を含む京都三大葬送地、つまりはあの世の管轄人だったことなどが、人びとを恐れさせ、奇怪な伝説を生んだに違いない。

その篁を忍ぶ像が、閻魔大王像と並んでこの寺のお堂に祀られている。六道まいりの期間は格子戸が取り払われ、直に像を拝することができる。撮影禁止のため、目に焼きつけた篁像は伝説通りに堂々とした偉丈夫で眼光鋭く、あの世とこの世をじっと見定めているかのようだ――。

さて、この六道の辻のエリアには、死して墓の中で子を産んだ女が、我が子のために幽霊となって飴を買いに来る伝説を残す「幽霊子育飴」の老舗や、六道まいりの間、地獄絵(六道絵)や死体が朽ち果てていく様子を九段階で描いた檀林皇后九相図が公開される、西福寺がある。

rokudo04

子育幽霊飴の提灯

風葬の習慣が失われた今でも六道の辻の名残を見ることができるのは、いかに京都の人がこの地を恐れつつも敬ってきたか、ということに尽きるだろう。

京都のお盆は六道珍皇寺の六道まいりで先祖の精霊を迎える。

そして、その精霊は家族としばし過ごした後、16日の五山の送り火で、再びあの世へ帰って行くのだ。

妖しき伝説と実話を残す、嵐山の裏名所

京都を代表する景勝地「嵐山」。この地は昔も、桜や紅葉を愛でる別業(別荘)の場所として、都の貴族や権力者たちに親しまれてきた。

だが、日が暮れれば狐狸妖怪の棲む、寂しい洛外の地でもあった。嵐山を「あやしやま」と呼んだ人もあったという。

002_arashiyama_01

嵐山といえば渡月橋

その嵐山には、事実に基づいた次のような伝説が今に残っている。

明応9年(1500)のこと、後土御門天皇が崩御され、喪に服す間、殺生が禁じられた。保津川を漁場とする一人の漁夫は、喪が明けるまでの間、上流から嵐山へと筏を流し送る仕事をはじめた。その漁夫には商家に奉公に出した息子があった。だが、息子は主人の娘と叶わぬ恋に落ち、剃髪して保津川の上流にある荒れた御堂に隠れ住んでいた。

ある日、息子は恋しい娘が御堂の奥へ入っていくのを見て、気が狂わんばかりに後を追う。しかし、そこで見つけたのは娘に瓜二つの観音菩薩だった。彼は観音像を娘だと思い込もうとするが、やがて絶望し、保津川へ身を投げる。

一方、漁獲が解禁になり、漁夫は再び川へ投網を開始した。すると、経験した事がないほどの手応えが。「大漁だ」と漁夫は喜び、網をたぐり寄せて、仰天した。なんと、網の中身は、観音菩薩の像を抱いた息子の亡骸だったのだ。

この伝説は、明治31年にイギリスから日本にやって来た博物学者・リチャード・ゴードン・スミスも、日本滞在中に採取したとして記しているのだが、漁夫の息子の死体があがった場所までは書かれていない。おそらくこの辺りではないかと思うのが、嵐山の保津川右岸にある「千鳥ヶ淵」だ。

久しぶりに、私たちは千鳥ヶ淵へ足を進めた。渡月橋小橋を渡って右へ折れ、保津川沿いに大悲閣へ向かう散策道を歩く。

002_arashiyama_02

渡月橋を大悲閣への散策道から眺めてみた

しばらく行くと上り坂があり、その坂を下り終えると、川岸に岩肌が広がる。この辺りが、昔から「千鳥ヶ淵」と呼ばれる嵐山の裏名所である。

 

この淵は、平安時代の末期、平清盛の建礼門院の侍女・横笛が身を投げたと伝えられる場所でもある。千年も前の伝説だと片付けられないのは、昭和に入っても、密かに「自死の名所」などと噂が囁かれ、この淵に身を投げる者が相次いだからだ。

002_arashiyama_03

大正末〜昭和初めの千鳥ヶ淵辺りを取った絵葉書(著者所蔵)

10年ほど前のこと。私たちは取材中に、以前この千鳥ヶ淵の浜で茶店を営んでいた老女に話をうかがう機会を得た。

その老女は茶店を営んでいた時に、川で溺れていた人を三度ほど助けたという。地元の方の話では、この辺りだけ水深が極端に深く、地形のせいか流れの勢いが失われているそうだ。さらに水底は渦を巻いているともいわれ、遺体が巻き込まれるとなかなか浮かび上がってこず、浮かびあがってきた時には、死蝋化していることが多いらしい。淵の水面に向って撮影すると、水の波紋が人の顔のように映るとも聞くが……。

10年前に訪れた千鳥ヶ淵は、生い茂った樹木の枝が水面に覆い被さり、陰鬱な雰囲気を際立たせていた。それが3年前の大雨で渡月橋の付近が水没した後に改修工事がなされたのか、今は川の流れを一望でき、夏の陽ざしを浴びた水面はまばゆく輝いていた。

002_arashiyama_04

千鳥ヶ淵

ただ、陽ざしが明るいほど、陰は濃くなるものだ。観光名所としてにぎわう傍に、悲しい伝説や凄惨な出来事が潜む裏名所があることも、京都の奥深い一面なのかもしれない。

レンズが捉えた、「千年の霊瀑」の神秘!

その奇妙な出来事と出合ったのは、五年前の七月初旬のことだった。

"天台声明"の取材で大原を訪れていた私たちは雨模様の中、土産物店の前を過ぎ、呂川に添って参拝道を上っていった。

001_sanzenin_02
三千院・来迎院への参道、呂川

寺のご住職から声明を拝聴する機会を得、本堂へ入ると、燭台の明かりがほの暗く、三体の本尊がぼんやりと黄金色に浮かびあがっていた。

声明とは経に節をつけて歌詠するもの。古代インドでバラモン教の讃歌を仏教にとり入れ、経文を梵語で唱えたのが始まりで、音楽的な色彩が強く、修練は口伝だという。
また平安時代初期、この大原は最澄の直弟子の慈覚大師円仁が、唐から学んだ声明の修練道場として開山した場所。隆盛時は四九の坊があり、声明を修練する僧侶や貴族が集い、妙音のこだまする里として知られていた。

 

001_sanzenin_01
大原の里

雨音が静かに響く堂内で、住職に経の一文「総礼伽陀」を声明で唱えていただいた。住職の口にされる声明のひと節ひと節は難しかったが、心に染みて、しだいに気持ちがひきしまり、自然に三尊を拝して合掌し、こうべを垂れていた。

声明を体に染みこませた私たちは、寺を後にし、天台声明中興の祖「良忍上人御廟」に参拝、その足で上人ゆかりの「音無(おとなし)の滝」へと向かった。

001_sanzenin_03

音無の滝
(実際に数枚撮った中の一枚で、不思議なモノは写っていない写真を掲載)

この滝は、江戸時代の地誌『都名所図会』にも紹介されている名瀑で、良忍上人が滝の流れに向って声明の修行をしていると、滝の音と声明の声が和して、ついには滝の音が聞こえなくなったことから、その名がついたといわれている。以来、多くの修行僧たちが日々、この滝壺の前で一身に声明の修行に励んだ。そして、ある域に達した者にだけ、見られる世界があるという。だが、修行半ばで挫折し、滝壺に身を投げた修行者も多くいたと聞く。

私たちは荒い息を弾ませ、ムシムシする梅雨空の下、水量が増した音無の滝の前に立ち、先程、耳にした声明を頭のなかに甦らせながら、夢中で滝を撮影していった。

その時はさして変わった様子はなかったが、取材を終えてオフィスへ帰り、デジカメの画像をパソコンで確認していて、あっ、と叫んでしまった。

カシャ、カシャ、カシャと滝を三枚連続撮影した中の一枚だけが、滝の姿が人の顔の右半分のように見え、滝の一部分を拡大すると、上から三分の二ほど、向って左側にはっきりと、人の顔が写っていた! しかも、顔は白く、頭を丸めた端正な表情の男性だ。いや、それだけではない。あちこちに大口を開けて何か叫んでいるような、唱えているような、人の顔にも見えるモノが水飛沫に浮かび上がっている。他の画像を確認するが、写っているのはこの一枚だけだった。

ふと、あるカメラマンから聞いていた注意を思い出した。

雨降りの午前中、音無の滝を撮影すると、妙なモノが写り込むことがある――。この一枚は、現世と幽界の扉が開いた瞬間だったのか?

それから五年、その摩訶不思議な写真はプリントアウトしてオフィスの神棚に立て、水と塩を供え、私たちのオフィスの守護神として大切に祀っている。

摩訶異の入口へ戻る

京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

摩訶異を検索

新着記事

カテゴリー

アーカイブ

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
PRESENT
Leaf会員登録