京の禊ぎ。清滝の行者岩と空也の滝

広辞苑によると「禊(みそ)ぎ」とは、身に罪または穢(けが)れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること、と記されている。

昔、愛宕山に入る者は皆、愛宕山二ノ鳥居の傍を流れる清滝川(きよたきがわ)で禊ぎをしたという。

久しぶりに清滝に足を向けた。清滝川は清流を湛え、初夏にはカジカの澄んだ鳴き声が響き、鮎の群影を目にすることができる。何年か前、大雨の降った後に特別天然記念物のオオサンショウウオに出会えたことがあった!

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清滝川生息動物の看板

また、夏の清滝を訪れる楽しみは、自然の生き物たちに出会えるだけではない。市街地よりは5℃ほど気温が低く、金鈴橋や(きんれいきょう)下流の渡猿橋(とえんきょう)の上に立っていると、愛宕の霊峰から吹き下ろす涼風が川を渡って身を冷やしてくれ、心地よい。

その涼風に身を任せて金鈴橋より下流を見下ろしていると、大小の奇岩が座る渓流の中に、ひときわ背が高く、人目を引く奇岩があることに気づいた。まるで根岩から天に向かってにょっきりと突き出たように見える。その容姿は道祖神のそれだ。

しかも、その奇岩の傍の浅瀬には石で円く囲ったような跡が見てとれた。なんだか人工の水溜まり跡のようなので、地元の方に尋ねてみると、「あの大岩は修験者たちの聖地・熊野の大峰山の「のぞき岩」に形がそっくりなので、行者岩と呼ばれているんですよ。そして、あの岩の傍の水溜まりの跡のようなのは、禊ぎや水垢離(みずごり)をした跡ですよ。昔は、あそこで心身を清めてから山を上って愛宕神社へ参拝したものです」と教えていただいた。今ではもう、その光景は見られないのが残念。

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清滝川の行者岩

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愛宕神社への登り口

また、今でも禊ぎをする人に出会える場所が清滝にある。

その昔、空也上人が修行したといわれる「空也の滝」がそれで、金鈴橋から月輪寺方面へ向かって約30分ほど上った愛宕山中腹にその霊瀑はあった。

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空也の滝への参道

途中、滝へ向かう分岐点があり。苔むした岩場を踏みしめながら、水の流れに逆らって石段を上っていくと、しだいに辺りはひんやりして、厳かな雰囲気に包まれる。水神八大龍王の鳥居と空也と書かれた鳥居をくぐる頃には涼しげな滝の音が聞こえてくる。そして、水しぶきを上げる空也の滝に出会えた。

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空也の滝と鳥居

滝の傍には不動明王像や前鬼と後鬼を両脇に従えた役行者像が建立されている。滝の傍に立つと、冷気と水しぶきが身体に降り注ぎ、心身に溜まった日頃の垢が洗われていくようだ。

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空也の滝を見守る役行者と前鬼・後鬼の像

ここで滝にうたれていた武道家の男性に話を伺うことができた。その人は愛宕神社に詣でる前に必ず、ここで禊ぎをするのだそうだ。また、10年以上前のことだが、初めてここを訪れた時、不思議なおばあさんにめぐり逢ったことを覚えている。その方が口にされた言葉が、今でも印象に残っている。

「人は誰しも、因縁を背負って生きているものや。どの家庭にも大小こそあれ、悩みや病、争いの火種を抱えているもの。この滝にうたれると、身体がフワッと軽うなって、すっきりしますのや。ただ……」

と、いったん言葉をきり、おばあさんはこう言われた。長い間、滝にうたれていると、他人の因縁までが見えてくるようになったそうだ。

「ほら、あんたのも、よう見えます」

ぎょっ、となったのは言うまでもない。

京の風物菓子「水無月」と氷室

6月30日の夏越しの祓えには、水無月が欠かせない。三角形のういろうに小豆を乗せた和菓子で、三角のかたちは暑気を払う氷を模し、小豆は魔除けを意味するとのこと。そして、この菓子が生まれた背景には、平安時代の「氷室」の逸話があった。

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和菓子・水無月

当時、冷凍庫の役目を担ったのが、氷室と呼ばれた地下保冷倉庫だった。氷室は都よりグッと気温の低い山懐の地に、周囲約10m、深さ約3mの穴を掘ってこしらえられた。その中には茅などの草を厚く敷き、その上を風雨を防ぐ草葺きの小屋で囲い、そこに冬の間に氷の張った池から氷塊を切り出して保管していた。夏になると、都の貴族たちは氷室で貯蔵した氷塊を宮中に運ばせ、さまざまに加工して涼をとった。

平安時代には、京都周辺に氷室が6ヶ所ほどあったとされる。唯一、北区大宮西賀茂氷室町にある氷室跡は今も見ることができる。この氷室は標高約450mにあり、京都市内よりも6℃ほど気温が低く、昔、周辺は雪が多かったようだ。

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氷室神社

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氷室跡の石碑

さて、氷室から御所に献上された氷は、どのように使われていたのだろう。

平安時代の文学『枕草子』や『源氏物語』には、「削り氷(ひ)」が登場する。小刀で氷塊を削り、それに砂糖代わりに使われていたアマヅラの蜜をかけ、銀の器に入れて食されていたのが、削り氷だった。アマヅラはツタの汁を煮詰めたシロップのようなもので、現代のかき氷の先駆けといえる。また、『源氏物語』にはご飯に氷水をかけた水飯を食べるシーンや氷を肌に当てて涼むシーンも描かれている。平安時代の京都の夏も、とても暑かったのだろう。

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現代のかき氷

ところで、氷には他にも重要な用途があった。毎年元旦の節会には、宮内省に属し水に関することに従事した主水司が各地の氷室から氷の出来具合を報告させ、その年の吉凶を占った。氷が厚いと豊年、逆に薄いと凶年の兆しとされた。また、酒や食料の冷蔵保存としても用いられた。そして遺体の腐りやすい夏場は、現代のドライアイスの代わりに、遺体の腐敗防止に氷が活用されていた。三位以上の貴族にのみ、氷の使用が許されたという。

夏の間、氷室から宮中へ運ばれてきた氷の量は一日に500~800kg、年間約80tにものぼった。その作業を担当する役人と役夫は約800人いたと聞く。盛夏期には氷室から御所まで運搬作業が毎日続いた。氷塊は約112㎏の重さで、2人の役夫が緋幡の標識を立てた馬の口取りをして、夜明け前のもっとも涼しい時間帯に早駆けで搬送した。氷室の里から御所まで約10㎞の道のりを3時間ほどで運んだといわれる。

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古地図に見える氷室(真ん中上方)

酷暑の中、6ヶ所あったと言われる氷室から時間に急かされ、自分たちが決して口にすることのない重い氷塊を運ぶ作業は、過酷だった。時に、死人も出た。右京区宇多野にある宇多野福王子神社の本殿傍らの末社・夫荒社には、任務が果たせずに行き倒れた役夫や馬が夫荒神として祀られている。貴族たちが優雅に削り氷を口にしている裏で、多くの役夫や馬たちの命が失われていたのだ。

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宇多野福王子神社の末社・夫荒社

そうした氷は貴重で、庶民には高嶺の花だった。それでも彼らはたくましい。氷の代わりに、小麦粉でだんごを作って三角に切り、氷に見立てて食した。気持ちだけでも涼しく、という庶民の知恵と工夫の詰まった菓子、それが水無月の始まりだった。

この時期だけ京都の和菓子屋やスーパーで販売される、水無月。昔の氷室の役夫や馬たちの労働に敬意を払いつつ、水無月を食べて暑気と魔を払い、これから迎える本格的な夏を乗り切りたい。

 

奇談・清水の三年坂の名の由来

京都の観光名所のひとつ、清水寺へ至るまでには幾つもの坂を経なければならない。周辺の地名は「八坂」というくらいで、坂の街だといっていい。清水坂、三年坂(産寧坂)、山ノ井坂、霊山坂、法観寺坂、下河原坂、長楽寺坂、祇園坂の八つの坂があり、それらを総称して「八坂」と呼ぶと聞く。

なかでも、三年坂(産寧坂)の名称にまつわる、ちょっと怖いエピソードはよく知られている。この坂で転ぶと、三年の内にポックリ死んでしまうとのこと。今でも坂の途中のショップで魔除けの瓢箪が売られているのを目にすると、ただの伝説だと笑い飛ばすわけにもいかない。つい、上り下りする足もとが慎重になってしまう。

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三年坂の石段。 右手のお店は「瓢箪屋」

一説によると、三年坂という名前は、坂が出来た年号の大同3(808)年から名付けられたともいう。実際、歩いてみると、石畳が整然と敷かれ清潔感があって、両側に町家風の土産物ショップや食事処、美術館などが並び、京の情緒ここにあり、を実感させてくれる。

それにしてもどうして、風情あるこの坂道に、三年のうちに死ぬという奇っ怪な言い伝えが生まれたのだろう?

 それはこの周辺の歴史と関係がありそうだ。

昔、この一帯は鳥辺野と呼ばれる京都の三大風葬地のひとつだった。三年坂から清水坂を越えた南側が葬送の地(死者の領域)で、この坂周辺は「あの世」と「この世」の境でもあったのだ。三年坂と清水坂の交わる北東に建つ経書堂(来迎院)は、かつて死者に手向けるためにお堂の僧が経木などに経文(法華経)を書いた場所で、その向かい側には三途川の奪衣婆の像のある愛染堂(通称・姥堂)があったという。

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三年坂から清水坂に出る角。右手は経書堂

そういうこの坂の特異な成り立ちや、清水寺の子安塔へ詣でる妊婦さんへ、急勾配の坂で転んでケガをしないように気をつけよ、と喚起する意味もあって、「三年坂で転んだら三年のうちに死ぬ」という噂が生まれたとも聞いている。

こんなエピソードにも出会えた。この坂である年老いたお坊さんが転んだのを、坂道の途中にある瓢箪屋の主人が助け起こし、その伝説を教えた。するとお坊さんは、自分は年寄りでいつ死ぬかしれないと思っていたのに、あと三年は生きられる、と喜んだという。

ところで、この地域には一年坂、二年坂、三年坂があるが、実は、しねん坂もあるらしい。二年坂から正法寺へ向かう石段の坂道が、それだ。

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龍馬坂(しねん坂)から正法寺へ続く石段の坂

坂の北側には霊山護国神社があり、龍馬などの墓があることから、龍馬坂とも幕末の志士葬送の道とも呼ばれている。以前、この坂について二年坂に住む方からお話を伺ったことがある。

その方の祖父が危篤になって意識を失った。その後、息を吹き返した祖父が、「気がついたら、正法寺さんへ行く坂の石段に立っていた」と口にしたという。以来、その家では龍馬坂とは言わず、「しねん坂」と呼んでいるとのこと。しねん=死ねない、死なない坂という意味だそうだ。

しねん坂は、観光客であふれる二年坂のすぐ傍にありながら、人通りはほとんどない。周囲の景色に溶け込むようにひっそりと、そこにある。

古来より坂というのは、日本神話の黄泉比良坂(よもつひらさか)に代表されるように橋や辻と並んで、あの世とこの世をつなぐ異界への通路だとみなされてきた。坂道を上っていくと、その先には、何があるのかとドキドキしてしまう。坂に神秘を感じるのは現代人にも日本神話のDNAがしっかり受け継がれているからだろうか。

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八坂の塔

京都にもあった、廃墟の聖地!愛宕山ケーブル駅舎跡

近年、廃墟ばかりを撮影した写真集が数多く出版され、廃墟ツアーが人気になっている。なぜ、人は廃墟に魅了されるのだろうか?

廃墟と聞くと、おどろおどろしいイメージが先行する一方で、ノスタルジーや浪漫の響きを感じさせてくれる。日本人が愛してきた滅びの美学に通じるものが、そこにあるからだろう。

実はこの京都にも、これぞ「廃墟の聖地」といえる場所がある。旧愛宕山鉄道ケーブル(鋼索線)とその終点だった愛宕駅だ。

愛宕山は、火伏せの神として知られる愛宕神社を懐に抱く、京の西の霊山である。昭和4年(1929)の夏、その霊山に愛宕山ケーブルが開業した。当時、ケーブルは営業距離と高低差は東洋一だと脚光を浴び、山中にはスキー場やホテル、飛行塔のある遊園地などがオープンして大勢の人で賑わった。

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当時のケーブル愛宕駅舎の写真

ところが、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、日本の敗戦が濃厚になり、愛宕山ケーブルは「不要不急鉄道」とされ、鉄供出のために廃線となってしまう。それから約70年の時を経て、今では幻の鉄道として廃線マニアたちの密かな人気スポットとなっている。

この愛宕山ケーブル駅舎跡へは愛宕神社表山道を水尾の別れまで登り、さらに社の山門(黒門)へ向かう。少し進むと右手側に脇道がある。それが愛宕駅跡へ至る道だ。脇道に入る古木の根元には探訪者が入口の目印として置いてゆくのか、拳大の平たい石が幾つも積み上げられていた。

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愛宕神社参道から脇道へ。
木の根元に置かれた石が目印

少し進むと建物の残骸らしきコンクリートの塊に出会えた。この辺りには料理旅館や土産物屋などが立ち並んでいたというから、その一部かもしれない。

さらに歩くと突然、目の前がパッと開け、旧愛宕駅の廃舎が現われた。

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ケーブル愛宕駅舎跡

初夏を思わせる陽ざしの下で、それは緑のつる草に覆われていた。駅舎跡は一見、モダンな洋館という感じで、不気味さはあまり感じなかった。建物に近づくと、柱はぼろぼろで壁も天井もいつ崩れても不思議でないほど荒れ果てている。事故があっても自己責任だと思いながら、ゆっくりと建物の内部へ足を踏み入れた。

そこには日常とかけ離れた、異質な空間が広がっていた。

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駅舎跡1階の内部

コンクリート剥き出しの天井や壁、床。そして窓があったらしき部分にガラスは嵌まっておらず、吹き曝しだ。建物は正面から見た時は2階建に見えたが、地下1階、地上2階建の三層構造になっていた。駅舎として盛況だった当時は、地下にはケーブルを運転する機械室が設けられ、1階は待合所や改札口、2階には愛宕食堂があり、カレーライスやタンシチューが人気を集めたと聞く。2階へ向かう階段はそのまま残されていたので上がってみた。

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食堂があったという2階への階段

天井には亀裂が入り、長年の雨漏りで溶け出したコンクリートがツララとなって幾本も垂れ下がっている。その真下の床には水滴に混じって落下したそれが、楕円形の層を作っていて、まるで小さな鍾乳石だ。

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天井が溶けて、小さなツララ状態に

かつて、ここには人の営みが確かに存在した。そう思うと、とたんに感傷的な気分になってきた。訪れる人がいようと、忘れ去られようと、この駅舎跡はすべて、時間とともに静かに朽ち果てていくのだ。

霊山に抱かれた「異形」を脳裏にやきつけ、廃墟と真逆にむせかえるほど生命力に満ちた新緑の中を、ケーブルの廃線跡をたどって下山した。

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廃線跡のトンネル

葵祭と『源氏物語』の中の魔性

5月、京都三大祭のひとつ「葵祭」の季節がやって来た。

古来より、一年を通して京都は祭礼の宝庫だった。江戸時代の初期、京都で暮らした儒医・黒川道祐の著『日次紀事(ひなみきじ)』によると、一年間に1,500以上もの行事があったとされている。

その中でも、祭といえばこれを指すといわれたのが、葵祭だった。千年以上の伝統を持つ賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭で、古くは「賀茂祭」といい、今のように葵祭と呼ばれるようになったのは、元禄期になってからだとのこと。

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約110年前に発行された絵葉書の葵祭。
京都加茂葵祭と書かれている(著者所蔵)

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下鴨神社桜門

そもそも「祭」は、神を迎えることにあった。葵祭では神を迎えるのに欠かせない植物がある。祭の主役「斎王代」が髪に挿し、祭儀に関わる人や牛車に至るまで飾られるアオイ科のフタバアオイである。昔、アオイは「あふひ」と書いた。この祭礼では「あふ」は逢う、「ひ」は神の力を表すとされ、古歌では「逢う日」とかけて用いられることが多いが、「神と逢う日」に通じるということだろうか。一度の祭礼で約1万枚ほどが使用され、重要な役割を担ってきた。また、賀茂神社の神紋であり、祭の名の由来となったことでも知られる。

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フタバアオイ
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さて、この葵祭だが、昔も見物客がすごかった。平安時代、見物客の熱気ぶりを象徴的に取り上げているのが、世界最古の小説といわれる『源氏物語』だろう。

その第九帖「葵」で描かれる葵上と六条御息所との車争いの場面を読むと、それは斎王御禊の神事の日で、大路は牛車を止める場所もないほど、見物客でごったがえしていた。その中に、目立たぬよう古びた網代車に乗り、人知れず光源氏の晴れ姿をひと目見ようとしていた高貴な人の姿があった。光源氏の元恋人・六条御息所である。ところが、彼女の車は後からやって来た光源氏の正妻・葵上の牛車に押しのけられ、車まで壊され、大勢の見物客の前で恥をかかされる。プライドの高い御息所は葵上への嫉妬と屈辱から生き霊となって葵上に取り憑き、とうとう殺してしまう。女の執念の怖ろしさと哀しさを描いた名場面の一つである。

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葵祭の牛車

神を迎える当時の代表的な祭礼と女の執念を絡めて物語をドラマティックに演出していった紫式部の構想には、脱帽させられる。

この車争いに描かれた場面は、あながちフィクションというわけでもなかった。実際、平安時代以前の祭礼時には、やはり大勢の見物客が詰めかけ、何度も乱闘騒ぎが起こり、死者まで出していたそうだ。危険だというので禁令が出されたこともあったという。

ところで、葵祭に欠かせない植物「フタバアオイ」だが、近年、自生数が激減しているらしい。フタバアオイを保護・育成するプロジェクトが立ち上がっていると聞いた。葵祭も、フタバアオイも、先の時代へと受け継がれていくことを祈りながら、今年も15日に行われる優雅な王朝行列を沿道で見守りたい。

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葵祭の参向行列

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葵祭の花笠

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京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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