天明の大火の怪異

春一番が吹く季節がやって来た。南からの強風が吹いて、手荒く冬と春の交代を告げていく。春の到来にホッとする人も多いだろう。だが、230年前、春一番によって京都は未曾有の大惨事に見舞われた。

人のわざかよ 魔のわざか さては天日か月のわざ 再びあるまい京焼けの 花の都が野になった――

とは、当時、京都で女の子たちが手鞠をつきながら歌った「京焼け手まり唄」の一節だ。

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手まり(イメージ)

天明8(1788)年正月晦日の早朝に発生した京都三大大火のひとつ、天明の大火を歌ったもので、現代の暦で正月晦日は3月7日にあたる。折しもその日、京の街には東南の強風、春一番が吹き荒れていた。

火元となったのは東山区の団栗図子(宮川筋一丁目と二丁目の境を東西に走る小路のこと)の一角にあった民家からだという。炎はまたたく間に風にあおられて燃え広がり、鴨川を飛び越えて南は七条通、西は千本通、北は鞍馬口通あたりまで、洛中の5分の4を焼け野原にした。

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団栗図子の様子

冒頭に紹介した京焼け手まり唄の「人のわざかよ 魔のわざか」という歌詞が妙に気になった。実は、この出火に関して後に奇妙な噂が流布した。火災が発生する直前の明け方、団栗図子の空き家に、白い着物姿の若い娘が火の灯ったロウソクを手に、家の中へスーと消えるように入って行った。とたんに、その空き家から火の手があがるのを、早起きしていた近所の人が目撃したという。また、京の上空にどこからともなく火の鳥が現れ、羽ばたく度に火の粉が散って燃え広がったとの噂も囁かれた。

団栗図子の火元の家はいわく付きの空き家だったのか、ロウソクを持った娘はいったい何者だったのか、火の鳥とはどんな怪鳥だったのか? 結局、取り締まるはずの役所も焼けてしまい、出火の原因はうやむやのままになってしまったとのこと。

現在、上京区寺町広小路上ルにある清浄華院の境内には、大火後に建立された「横死焼亡百五十人之墓」と記された大火供養塔が立つ。その横にある石碑には、大火を引き起こした強風のことを「狂風」と刻んでいる。

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清浄華院境内にある天明の大火の供養塔

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「狂風」の刻まれた石碑

天明の大火の際、火の付いた板や障子、襖などが火玉となって鴨川を飛び越え、あちこちに落下し、瞬く間に類焼したといわれる。その様子が火の鳥が飛び回っているように見えたのかもしれない。まさに当時の人々にとっては魔のわざ「狂風」よって引き起こされた大災害だったのだ。

この火災での怪異はほかにもある。上京区浄福寺通一条上ルにある浄福寺では、赤門と呼ばれる東門の手前で焼け止まった。

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浄福寺赤門

寺の伝承では鞍馬から天狗が赤門の上に舞い降り、巨大なうちわで風を起こして火を追い払ったという。また、下京区の西本願寺では境内の大銀杏が水を吹き、火を消し止めたといわれ、火災の際の様々な不思議を今に伝えている。

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西本願寺の大銀杏

ところで、京焼け手まり唄の歌詞は、最後をこう結んでいる。

二十匁 したげな栗板も 今は大工の世の中じゃ――

人々はこの大災害を前に、ただ嘆いているばかりではなかった。すぐに復興のために動き出し、多くの人材や資材が都に集められた。街の再建、修復のため、京の街は空前の好景気に沸いた。

本格的な春の到来を前に、230年前に発生した天明の大火と、まもなく7年を迎える東日本大震災に思いをはせながら、大災害への備えを心がけたい。

実存した、京の仙人!

江戸時代、人里離れた左京区の山深く、200年も生きたといわれる奇人がいたと聞く。名を白幽子(はくゆうし)と言い、里人から仙人と称された。その居住跡が北白川の東、瓜生山(うりゅうざん)の山中にあると知り、さっそく、その場所を訪ねることにした。

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『近世畸人伝』白幽子
(国会デジタルコレクション所蔵より)

日本バプテスト病院の駐車場脇に瓜生山への登山口がある。入り口付近で「熊に注意」の看板が目に入った。この季節、熊は冬眠しているはず、と気を取り直し、先を急ぐ。すぐに上り口があり、その山道を行くと、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)・地龍大明神の社裏から本格的な山登りが始まった。

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熊に注意の看板

市街地とちがって山中には3日前に降った雪がまだ残っていた。

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茶山へ向かう山道

江戸時代の豪商・茶屋四郎二郎の別荘があった茶山の山頂を越えて、さらに山の中に分け入る。この辺りは白川石の採集地で、巨岩が多い。

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山道には巨岩が残る

さすがに仙人と呼ばれた人物が暮らしたところだけあって、しだいに雪が多くなった。仙人の住処らしい雰囲気に包まれ出したかと思うと、突然、白川石の大岩が現れた。その大岩を左へ迂回すると、そこはちょっとした広場のくぼ地になっていた。

この場所こそ、白幽子の居住跡だった!

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白幽子巖居之蹟

白幽子について調べてみると、年齢不詳の人物だったようだ。文献には、その年齢は200歳を過ぎているとも、あるいは風貌は60過ぎに見えるけれども、ある老人が白幽子に自分の父母や祖父母のことを尋ねると、まるで、まのあたりにしたごとく語ったともいう。

風貌については、髪は垂れて端座する膝を過ぎ、顔はナツメのように麗しいとある。天文に詳しく、医道にも通じ、魚鳥の類は食べず、酒を飲んでもほがらかにはなるが、泥酔する姿はまったく見ない。木の果を拾って食し、鹿や猿と語り、人と会うことを好まず、里人を見ると走り去ったという。

白幽子の居住跡には、白幽子が使っていたとされる井戸跡が今も残る。冬場は相当、冷え込んだと思われる。湿気も随分、多そうだ。近くの雪道では、いろんな動物の足跡とも出会うことができた。

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白幽子が使ったと伝わる井戸跡

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山の住人の足跡(タヌキ?)

また白幽子は、戦国時代末期から江戸時代初期に武人として、漢詩人としても活躍した石川丈山(詩仙堂を建てた)の師だとも、逆に弟子だったとも伝わっている。よく知られているエピソードとしては、臨済禅中興の祖といわれる白隠禅師(1685~1768)が病に苦しみ、白川山中の白幽子を訪ねた際、「内観の法」という健康術(精神療法)を授かり、病が治癒したと言われている。「仙人」とは山中に住み、不老不死で神通力のある人物をいうらしいが、まさに白幽子は仙人と呼ばれるにふさわしい人物だったのだろう。

ところで、瓜生山は八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨したという言い伝えがある。疫病封じに強い神様だけに、この山が今、健康や病気平癒のパワースポットといわれているのも、うなずける。

けして険しい山ではないので歩きやすく、渓流もあり、歩くと清々しい気持ちになれた。今回、仙人伝説と山の清浄な空気に触れ、白幽子の会得した健康法のカケラだけでもいただけたような気がした。

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神秘的な瓜生山の山中

京の節分と達磨

春夏秋冬の季節を分ける、という意味を持つ節分。今年の立春は2月4日だから、前日の3日が冬と春の変わり目の節分にあたる。

昔から立春の節分は春が始まる、つまり1年の始まりとして大切に考えられ、その大晦日に旧年中の厄を払う追儺(ついな)が行われてきた。追儺は鬼を払う行事で、京都では多くの寺社で節分祭が行われ、この時期の風物詩となっている。そんな中で、この日ばかりは「達磨」が主役となる寺院がある。

円町駅からほど近い、臨済宗妙心寺派の法輪寺だ。境内の達磨堂には、約8,000の達磨が祀られており、京都の人たちは法輪寺のことを「だるま寺」と親しみを込めて呼ぶ。毎年、節分が迫ると、下立売通や紙屋川にかかる橋には赤や白の幟(のぼり)が立ち、提灯が吊られて、普段は静かな通りがいっぺんに賑やかな雰囲気に包まれる。そして寺の門の脇では巨大な達磨が参拝者を迎えてくれ、境内に入ればもう、そこは達磨づくし……。

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下立売通の幟と提灯

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節分の達磨寺

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達磨寺の門脇で参拝者を迎えてくれる

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金天と呼ばれるタイプの小さな達磨たち

達磨のモデルとなったのは、約1500年前の実在の人物だ。禅の開祖として知られる達磨大師で、9年間壁に向かって座禅しつづけ悟りを開いた「面壁九年」の故事で知られる。その達磨大師の修行する姿や不撓不屈の精神が、後にご利益をもとめて縁起物として定着していったのだろう。

今では選挙の時に片方だけ入っていない黒目を書き入れるのがお馴染みだ。目を入れる時は、まず願掛けをして左目(向かって右)を入れ、成就した際に右目(向かって左に)入れるのが良いと聞く。陰陽道で左が陽、右が陰とされることに由来するようだ。

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目入りと目を入れるタイプの達磨たち

達磨といえばその形とともに、赤い色が印象的だ。一説には達磨が赤いのは、中国で最も徳の高い僧が身に着けるのが赤い法衣とされ、達磨大師もそれを着ていたとからだという。また、古来より赤は魔除けの色であり、疱瘡(ほうそう)除けの色でもあった。昔は人工で赤を作り出せなかったため、特別な力を秘めた色だとされてきたことも、理由の一つだろう。

達磨の発祥だが、室町時代に中国の「明」と室町幕府との貿易によって輸入された不倒翁(ふとうおう)がそのはじまりだとされる。京都の富裕層の贅沢品だった不倒翁が、起き上がり小法師として庶民の間へと広まり、東や西へと伝わっていったようだ。それが江戸時代中頃になってさらに変化し、「達磨」が誕生したと考えられている。京都では長く、子どもたちの玩具として起き上がりこぼしが長く愛されてきた。京都より東の地域では達磨として発展し、西では起き上がりこぼしの形が今に根強く残っていると聞く。

ところで、節分と言えば「豆まき」だが、豆をまくという行為は、魔(ま)を滅(め)っするという意味から来ているという。

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節分の豆

この冬の京都は、ことさら寒い。達磨づくしの法輪寺で、達磨のパワーをいただきながら、住職のだるま説法を聞き、立春を迎えるのも京の節分の過ごし方のひとつ。豆をまいて魔を滅し、この時期に境内で販売される縁起物の「だるま焼」を食べて、気分だけでも一足先に春を迎えたい。

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節分に達磨寺境内で売られている「だるま焼」

京都の招き猫

江戸時代末から千客万来、金運招福にご利益があるとして、暮らしの中に息づいてきた縁起物の「招き猫」

右手をあげているもの、左手をあげているもの、身体の色が白や黒かで、ご利益の内容が違う。一般によく言われるのは、猫が右手で招いているのが「お金」で、左手で招いているのは「お客」とのこと。そして白猫は商売繁盛、黒猫は病除け、ということらしい。

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お店のなかで見つけた白の招き猫

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右手をあげる黒い招き猫

最近では白、黒以外にさまざまな色の招き猫が登場している。金色は金運や開運、赤色は魔除け、青色は交通安全、ピンク色は良縁や恋愛にご利益があるという。地域によっても色や手の左右でご利益が違っている。

例えば京都では、黒猫は商売繁盛にご利益があり、右手をあげて招いているのは昼の商売、左手で招いているのは夜の商売にご利益ありだそうだ。また、黒い招き猫といえば、左京区川端通三条にある檀王法林寺の招き猫がよく知られている。「だんのうさん」と親しまれるこの寺の黒い招き猫は主夜神尊の御使いとされ、江戸時代から京の人々の信仰を集めてきた。その主夜神は、主夜が守夜に転じて夜を守る神として火災除け・盗難除けとして尊ばれ、夜目にも目を配ってくれるという神様だ。

古来より、夜行性で暗闇にも光る目を持つ猫は魔力があるとか、魔除けになると言われてきた。特に、夜の闇のような毛並みを持つ黒猫の神秘性が、夜を守る主夜神と結びついていったとしても不思議ではない。

寺社関連では、この檀王法林寺の招き猫が最も古いと伝わる。信仰の厚いこの招き猫が右手をあげているため、当時の京都では、右手をあげる招き猫は作るのが禁じられ、左手をあげているものしか作られなかった。右手をあげた姿が登場したのは、近代になってからだと聞く。

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左手をあげる黒い招き猫
(江戸時代後期の作成と思われる)

ところで、猫がなぜ福の神になったのだろう。中国の故事に「猫洗面過耳、則客至」という一説がある。猫が顔を洗って、その手が耳より上がると客が来るという意味らしい。猫が顔を洗う動作は「おいで、おいで」と言っているようにも見えるので、見た通りの発想かもしれない。ただし、日本では猫が顔を洗うと雨が降るともいう。

招き猫は日本発祥だといわれ、人気を博したが、今では中国や香港、台湾などでもさまざまな招き猫が作られ、日本以上に大衆文化に溶け込んでいるようだ。なかでも金色に人気が集まっているようだ。お国柄の違いだろうか。

猫は日本の十二支の中に数えられていないが、招き猫に見るように、民間信仰の中には猫信仰がしっかりと根付き、時代が変わっても愛され続けている。

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梅宮大社で出会った左手で招く白猫
(よく見ると後ろ足だった…)

魔除け、安産・子育ての縁起物「戌(犬)」

2018年の干支は戌(犬)。人にとって犬は干支の動物のなかで最も身近な存在といっても過言ではない。だが、ここ最近の猫ブームの陰にすっかり隠れ、影が薄いように思える。

犬をペットとして飼うのは、縄文時代からすでにはじまっていたようだ。縄文遺跡からは日本犬とみられる犬の骨が発掘されているという。また、平安時代の文学『枕草子』にも「翁丸」という名の犬が登場する。帝の愛猫と比べて、随分ひどい扱いを受けてはいるが……。

ビジュアルとしてわかりやすいのは、鎌倉時代の『春日権現験記絵巻』だ。その中には、首輪をつけてもらった犬などが描かれていて、可愛がられていたことが想像できる。

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春日権現験記. 第13軸
(国会デジタルコレクション所蔵より転載)

その犬だが、ペットや猟犬として親しまれてきたほかに、縁起物としての役割を担ってきた。犬は多産で、仔犬はよく育つことから、昔から安産や子どもの成長祈願のお守りとして尊ばれた。「戌の日に腹帯をまくとよい」とか、生まれた子どもに犬張り子を贈ったりする。江戸時代には結婚をすると、犬張り子の雄を妻の実家へ、雌を夫の実家へ届ける習慣があったとも聞く。地方によっては「犬のフンを寝床の下に入れておくと安産だ」「妊婦が犬を可愛がるとお産が軽い」といった言い伝えもある。

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巨泉おもちや絵集. 第13集 宮詣ノ犬張子
(国会デジタルコレクション所蔵より転載)

また、別の地方に伝わる不思議な話では、生前に飼い犬を大切にしておくと、主人が死んでしまった時、犬がおぶって三途の川を渡り、冥途での苦行も代わってくれるという。犬は冥途でも忠犬ということか。 そして犬は邪を防ぎ、正を守るといわれる。「遠吠えが魔を払う」「犬の居る家には悪いものが入って来ない」など、子どもの頃に近所のお年寄りから聞いたことがある。その時は、へえーと思っただけで、その理由を尋ねなかったのが残念だ。

そもそも古来より、魔除けとして活躍しているのが、神社の入り口に鎮座する阿吽の「狛犬」だろう。原型は獅子だとされるが、日本人にとっては、やはり「犬」のイメージが強い。

以前、狛犬にまつわる話で京都市内の狛犬を幾つか紹介したので、今回は先日、訪れた天橋立にある籠神社の狛犬のエピソードを取りあげてみたい。

社頭に鎮座する二基は、魔除けの狛犬として知られ、鎌倉時代の石造狛犬としては日本一の名作だとも伝わる。ところが、あまりに作り手の魂が込もっていたせいで時折、神社の境内を抜け出し、天橋立の松並木に現れては、人を驚かせた。その噂を耳にした戦国時代の豪傑・岩見重太郎が松並木で待ち伏せをし、狛犬が現れたところを刀で斬りつけた。脚を斬られた狛犬はそれ以後、出歩かなくなったという。二基の狛犬をよく見てみると、伝説通り、脚に斬られた傷跡が残っていた。出歩いて人を驚かせただけで脚を斬られて、少し気の毒な気もする。

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阿の右足、白い部分が斬られた跡といわれている

さて、安産・子育ての守り神として、魔除けとして、ペットとしても活躍してきた犬。現代ではまた違った形で人に貢献している。救助犬や警察犬、盲導犬など、活躍の場は幅広い。近頃では、人の何万倍から1億倍ともいう嗅覚を活かして「がん探知犬」として活躍しはじめているそうだ。マスコミでも取り上げられて一般に知られるようになったが、犬が尿を嗅ぎ分け、癌かどうかを判断する。その的中率は100%に近いとのこと!

長きに渡り、人と密接に生き、人を助けて来た犬。戌年の今年、再び犬ブームの到来となるのでは!

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市内で出会った秋田犬

 

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京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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