




「気付いたら詩を書いて歌っていました」っていうとかっこいいですが、実際はただ歌を歌うことで息ができる、「自分で自分にイエス」っていうために生まれてくる言葉を書きとめていく必要があったんです。

大学に入ってバンドを組んでいました。大学3回生になってみんなが将来を考えはじめたとき、音楽で食べていこうとは思わなかった。というか自分がやっているのは音楽じゃないと思ってた。詩を書いて歌として吐き出す。「だって息ができないんだもん」(笑)って。


京都でゆーきゃんとして活動をしていたのが、2000年~2007年の8年間なんで
すが、その中で3つのステップがありました。
まずは2002年、ボロフェスタを始めた年です。俗にいう京都系ブーム(くる
り、キセル、つじあやのを輩出したブーム)が去ったあと、田んぼに例えれば青田もないように見えた状態。空白の時期っていうのが自分たちでもわかった。それでも「メインストリームで鳴っている音楽だけが音楽じゃない、自分たちでアピールしなきゃだめだ」って、何人かのミュージシャンたちがぼんやり思っていたことが偶然リンクしたんです。それで始めた1回目のボロフェスタは2日で1200人ほど動員しました。いま思うとそんなにたくさんではないのかもしれませんが、とにかく自分達には大きな数字でした。なによりも自分たちで作るイベントの可能性が見えた気がしたんです。
次は2004年。東京のインディーズレーベルから1枚目のアルバムを発売したんです。たくさんのひとに音源づくりを手伝ってもらうのは初めてでした。スキマスイッチの、あのアフロのしんたくんにも一曲参加してもらいました。そして、自分で作った音源を自分の行ったことがないところに住んでいる人が聞いているという事実にも直面しました。始めた時は、隣で聞いていた誰かがいい曲だと思ってくれることだけで奇跡のようなことだと思っていたのに・・・。
そして最後が2006年。くるりに初めて会ったんです。くるりは多くの京都ミュージシャンにとってあこがれの存在。その音楽的な冒険と成功を勝ち取って行く姿は、まさに「京都ドリーム」の象徴だと思います。そんな2人が「君がやっている音楽はいいから」と言ってくれて、2枚目のアルバムを彼らのやっているレーベルからリリースすることになりました。このCDはバンド編成で作ったのですが、バンドメンバーが僕の世界観を出してくれて、さらにくるりという存在がフィルターになって、たくさんの人に自分の歌が届いたと感じました。ある雑誌のディスクレビューには「ゆーきゃんがやっとスタンダードを獲得した」と書かれましたね(笑)


先に言った、3つのステップは自分にとって転機であることは間違いないけれど、それによってもともとの想いがぼやけていったのも確かです。くるりにちょっとひっぱりあげてもらったからって、もっと売れるんじゃないかって欲張りになっていきました。京都の街は狭いから上手くいかないことも街中の噂になるんじゃないかって、被害妄想ですね。京都を嫌いになりたくなかったんです。自分の迷いとか欲のせいでしかないのにいつの間にか街のせいにしてた。だから、一旦離れようと思ったんです。バランスをとるために。
でも、東京に行ってもやっぱり、京都っぽいねって言われるんです。京都生まれじゃないのにおかしな話ですが、たぶん、自分にとっていちばん自然な表現方法を発見したのが京都という街のそこだったからなんだろうと思います。きっとこれからも僕が僕の感じるままに歌いつづけるかぎり、東京に何年住もうと、他のどこに行こうと、やっぱり僕の中から京都は抜けないんじゃないでしょうか。

京都の街が、ゆーきゃんという人間の創作活動に影響を与えてくれた。京都の音楽好きがライブを見にきてくれて、くるりとも会えて、自分が音楽をやれているのは京都だったからだと思っています。だから自分がメイド・イン・京都であることには誇りも持っていますし、やっぱりここは特別な場所ですね。


